野口英世とアメリカ(5)
3.フィラデルフィアへの道のり
野口英世は、1900(明治33)年12月5日、客船アメリカ丸で横浜港から日本を離れた。英世は、3等船客であったが、船内で、駐米日本大使館に赴任する小松緑書記官と親しくなり、1等船客と同等に扱われる。途中で、ハワイ見学をして、12月22日、サンフランシスコに到着した。
さて、英世はどのようにしてそこから、目指すフィラデルフィアに向かったのであろうか。『フィラデルフィアの野口英世』(浅倉稔生著 三修社)には、浅倉氏の大変な努力により、具体的にどの列車に乗ったかが、突き止められている。
12月24日 10:00サンフランシスコ発(サウザンパシフィック鉄道:26時間45分乗車)
12月25日 オグデン発(ユニオンパシッフィック鉄道:29時間20分乗車)
12月26日 オマハ発(ノースウェスタン鉄道:13時間45分乗車)
12月27日 シカゴ発(ペンシルベニア鉄道:27時間10分乗車)
12月28日 13:15ワシントン着
当時のアメリカにおいては鉄道旅行は、最も贅沢な旅行であった。横浜からサンフランシスコまでの船賃が、51円。これに対しサンフランシスコから、ワシントンまでは、150ドル以上(当時の1ドルは、2円位)かかったのではないかと推測される。英世は、手持ちの金が無くなっていくのに不安を覚え、車内での食事を1日1食にして、節約に努めた。しかし、これに気づいた小松書記官の好意により、車内の食事は小松書記官に支払ってもらう。
小松書記官の助言により、ワシントンで英世は英文の履歴書を書き直し、12月30日、ワシントンから、最終目的地であるフィラデルフィアに向かった。フィラデルフィアに到着した時、英世の財布には20ドル程度しか残っていなかった。
ところで、英世はアメリカへの留学を「フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学のフレクスナー教授から、是非来るようにとのお招きをいただいています」と説明している。しかし、実のところフレクスナーとは、東京で会って以来、音信不通であった。彼に、「アメリカで医学の勉強をしたいと考えています。その際は、ご指導くださいますようお願い申しあげます」といった手紙を送ったが何の返事ももらっていなかった。
受け入れ先の意向も確認せず、片道の旅費のみを持って、初めてのアメリカに行くのだから、本人も不安であったことだろう。1900(明治33)年12月30日、英世はついに、フィラデルフィア駅に到着した。
駅から2kmあまりの距離を馬車に乗って、ペンシルベニア大学の医学部を目指した。しかし、この日はクリスマス直後の日曜日で、医学部の建物には鍵がかかっていた。そこで、この建物の南側にある寄宿舎へ行き、舎監に「フレクスナー博士の研究室で働くために、はるばる日本からやって来ました」と伝えた。自宅から飛んできたフレクスナーは、東洋人の突然の来訪に仰天した。目の前にいる東洋人が誰であるか、思い出すこともできなかったからである。
齋藤英雄