野口英世とアメリカ(8)

6.  ロックフェラーと英世の出会いはなかったのか

英世はロックフェラー医学研究所において、看板研究者的な存在にまで上りつめていた。それだけの実績を生み出していたし、所長のフレクスナーからは、愛弟子として扱われていた。私は、当然英世とロックフェラーが面談する機会があったはずと思っていた。しかし、さまざまな資料を見ても、その記録はない。その原因は、ジョン・ロックフェラー側にあった。ロックフェラーは、この研究所に対して距離をおいて操る陰の実力者に徹していた。彼は、研究所の自治に干渉しないばかりか、フレクスナーの再三にわたる研究所見学の誘いにも乗らなかった。ただ一度、息子のウィリアムとタクシーに乗って、ぶらりと立ち寄っただけである。そうした事情から、英世はロックフェラーと直接合う機会がなかったものと思われる。

しかし、ロックフェラーは、医学研究所に夢中になっていた。「これまでの寄付すべてを見ても、医学研究所の有能でまじめな素晴らしい人たちの業績が最高だ」と彼は述べたことがある。その業績の中に、英世の研究が入っていたことは、疑いのないところである。フレクスナーは、有能な人材を見つける才能もあった。優れた能力をもちながら、一匹狼の研究者、奇人変人と思われている人達を集めてきた。そうした研究者たちを、フレクスナーは、「私のプリマドンナたち」と得意気に呼んでいた。その1人が、英世である。

ロックフェラー医学研究所は、この種の機関としては世界最高の資金力を誇ることになり、次々と当時の医学の謎の解明に一役かったのである。ロックフェラーが、医学研究所に注いだ金は、6,100万ドルにも上る。そして、これまでに21名ものノーベル賞受賞者を生み出している。その後、同じような施設ができたので、医学研究所は方向転換を迫られ、1965年には、ロックフェラー大学と名称変更された。

齋藤英雄

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