佐藤春夫の少年時代(6)

父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(2)
豊太郎の父鏡村(有伯、又百、諱(いみな)は惟貞)は、「緘口勿言天下事 放懷且讀古人書」という詞を座右の銘にしていたと言います。「文久元年、学成りて郷に帰り未だ年久しからざる或る日、程近き港に米利堅(メリケン)の黒船来ると聞きてこれを見ての帰るさ熱病を得て遂に起たず。(略)青雲一抹の煙、壮心一椀の土のみ。」と、春夫は父豊太郎への思いを偲ばせながら述べています(「蕙雨山房の記」・大正11年12月・東京朝日新聞)。
この座右の銘は「天下国家の事を口に出して言ってはいけない、心を穏やかにして古人の書いた物を読むべきである」という意味で、政治的行動への参加を厳しく戒めたものですが、「懸泉堂」の柱に、竹製の軸に彫られたものとして架けられていたということです。

 

いまでも懸泉堂に残る、家訓の竹製軸

椿山は京都の地で学んでいた若者たちが、幕末に尊王攘夷の「新思想」に感化されて、過激になりがちなのを察知し、息子もそうなるのを恐れて熊野に呼び戻し、「懸泉堂」を継がせようとしました。鏡村が望んだ江戸行きも許されず、熊野に帰る身となったのです。「鏡野隠逸」などとも名乗っていたようです。一族につながる「卯(とみ)」(「富」という表記も)という女性と結婚します。豊太郎の母です。
しかしながら、知的好奇心が旺盛な鏡村には、田舎の知的環境にはなじめないものがあったのではないでしょうか。ペリーの「黒船」来港の様子が、「風評」として飛び交っていたらしく、「当十日ニ浦賀ニ入舟之評も御座候貴地ハ此砌(みぎり)風評如何ニ御座候哉」と、鏡村宛ての書簡も残されています。ペリーが2度目に浦賀に来航するのは、嘉永7年1月16日です。異国船の黒船はまた、攘夷の象徴であるとともに、西洋への窓口でもありましたから、田舎の若者たちの知的な興味も掻き立てられていたことが分かります。それから約7年後の文久元年10月、いわゆる「黒船」が、隣の集落の浦神(うらがみ)の入り江に停泊していました。これはアメリカ船ではなくイギリス船で、「南紀徳川史」が記している、紀州の沿岸を測量して勝手な振る舞いをしたと言う記事に照合するものであろうと言うことです(「熊野懐旧録」佐藤良雄著)。
鏡村は友達4、5人と許可を取り、小舟を近くまで漕ぎつけ大きな黒船を何刻にわたって観察しました。夕方帰る途中大雨に襲われ、草鞋(わらじ)掛けでの山道踏破であったことなどから、翌々日から発病、高熱に悩まされるようになりました。京都で修業した時のこと、世間のこと、家のことなど譫言(うわごと)を残して数週して息絶えたのです。傷寒(チフス)が死因であったと言います。
この「緘口勿言天下事 放懷且讀古人書」の箴言(口を緘して言ふ勿れ天下事 懐(おもひ)を放つには且(しばら)く古人の書を読め・春夫の読み)は、おそらく椿山が鏡村に与えたものであろうと、豊太郎は春夫に語っています。そのことを述べて、この詞の由来を詳しく説明しているのが、春夫の作品「砧(田舎のたより)」(きぬた)(大正14年4月「改造」)という短篇です。

戦後、春夫は「世界のネジ釘」(昭和26年6月「三田文学」)のなかで、この箴言、処世訓から書き始め、自分も時局などには拘わらず、佐久の山中で陶淵明でも読んでいるべきであろうが、しかし、日本の今後は「東洋平和のため」「世界平和のため」に「世界のネジ釘」の役目を果たさねばならない、「このネジ釘はむやみにきつくしめすぎればそれ自体がこわれる仕組になつてゐるが、と云つてあまりにゆるめたりうつかり取外したりすれば東洋の平和、世界の平和はこのネジ釘のあたりから怪しくなることも確実なのである。」と述べています。

辻本雄
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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(西 敏)

 

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