シンゴ旅日記インド編(その40)寅さん 帝釈天案内の巻(1)

みなさん、柴又へよくいらっしゃって下さいました。
私(わたくし)が映画でおなじみの寅次郎でございます。
そして、この横につっ立っておりますのが私の銅像であります。
ここの商店街のみなさんに建てて戴きやした。
私が柴又帝釈天を全国的に有名にしてくれたってことのようです。
銅像を作る話が出た時にはね、私は、こっぱずかしいから止めておくんなさいって頼んだんですがね、おいちゃんやおばちゃん、そしてさくら夫婦までもが私に少しでも柴又に恩返しをしなさいよって言うもんですから、そいじゃ、よろしくってなことになりまして、こんなんが出来ちゃったというわけであります。これね、私がおいちゃんたちと喧嘩して柴又を出て行く時にさくらが私を見送ってくれるところを元にしたんでございますよ。それにしてもよく出来てますでしょ。

さて、まずはお初にお目に掛かります御一統様へのいつもの仁義を切らせていただきます。
お控えなさっておくんなさい。私、生まれも育ちも東京は葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。さて、本日は御前様から御一統様を題経寺にご案内せよとのお申しつけにより、青二才ではございますが、私の存じおります限りお話させて戴きやすので一つよろしくお願い申し上げます。
とまあ、こんな堅苦しい口上なんですがね、これはこれまでで止しましょうや。

ねっ。みなさんはオイラのことを『寅さん』とか『寅ちゃん』とか呼んでおくんなさいな。
実はね、三日前に御前様から『寅、今度の土曜日はヒマか?』って聞かれましてね、『何でやすか?』ってお聞きしましたらね、『名古屋にいる古い友人から頼まれてな、ちょっと6人ほどの団体にこの寺の案内をしてもらえんか。』って言われやしたんですよ。ええ、あの愛想の無いお顔でね。まあ、あっしもヒマと言やぁーヒマ、忙しいと言やぁー忙しい身でござんしてね、でも御前様のお願いだから断るわけにはいきやせんや。と言う訳で今日、みなさん方をご案内することになったんでございます。

本当はね、源公の野郎が皆様をご案内する予定だったんですよ、でもね、冬子お嬢様の嫁ぎ先での用事に出かける必要があるとかで野郎が居なくなったもんですからね、そのお鉢が私に回ってきたんですよ。

さて、みなさんが降りられました柴又駅からお寺に続く200mばかりのこの道を帝釈天参道と申します。私がご幼少の頃に育った古い家、そして今では、おいちゃん、おばちゃんが団子を作っております店が直ぐそこにございます。あっ、居た居た、おばちゃん、ご苦労さん。おいちゃんは、元気で、まだ生きてるのかい?エッ、さっきオイラと一緒に朝飯を食べていたんじゃないかって。おばちゃん、そんな野暮なことは言いっこ無しだい。オイラ、そんな昔のことは覚えてないんだよ。今日は名古屋からのお客さんを題経寺にご案内するんだ。あとでみなさんとダンゴ食べに寄るから気張って仕事しておくれよ。

私のおいちゃんはね、おいらのことをいつも『馬鹿だねぇ、全く馬鹿だねぇ』って言うんですよ。でもこれね、本当に馬鹿だって言うことじゃないんですよ。私は分かっているんですよ。ええ。
でも、これをね、関西弁で『アホやねぇ、ホンマにアホやねぇ』って言われると本物の馬鹿みたいでござんしょ。それに、みなさんの名古屋では馬鹿とかアホとは言わないんでしょ。『タワケだがね、どえりゃ、タワケだわ』って言うんでございましたっけ?オイラは名古屋に生まれなくて本当に良かったと思いますよ、はい。私が言う台詞の『それを言っちゃあ、おしまいだよ』ってのは大阪弁では『あんさん、そんなん言うたら、ワヤでんがな』ってでも言うんでしょうかね。名古屋弁や英語だったら何て言うんでございしょうね。きっと面白い言葉になるんでございましょうね。

でも、名古屋といえば尾張でございますね。『伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ』ってですかい。言葉はチト使い勝手が違いますが、いい土地柄でございますよね。よっ、えびす屋、しっかり稼げよ、相変わらず馬鹿かっ。へへ。

さて、みなさん、この参道の突き当たりが御前様のいらっしゃる柴又帝釈天でございます。
帝釈天と言いましてもご本尊は帝釈天ではござんせんよ。
このお寺の正式の名前は経栄山題経寺と言うんであります。
寛永6年と言えば1629年という古~い昔に建った日蓮宗のお寺なのでございます。
日蓮宗といえばこの世が終わるという末法思想が流行った鎌倉時代に他の宗教を『真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊』と激しく攻撃し、法華経だけが末法の世から人々を救える教えであり、他の宗教は人々をかえって苦しめるだけであるとする、きつーい教えでございました。

みなさんは、さしずめインテリの方々でござんすよね。日本の大学に立正大学ってえのがありますでしょ。その大学は日蓮さんの表した『立正安国論』から取った日蓮宗の昔から続く教育機関なんでございますよ。ええ。

また、日蓮宗の場合、お寺のご本尊は仏像でなく『南無妙法蓮華教』の七文字でございます。そして、その周りに多くの仏様の名前が書いてある大曼荼羅なのでございます。
この題経寺もご本尊はその七文字を書いた大曼荼羅なのでございますよ。
その日蓮宗の題経寺が、なぜ帝釈天で有名になったかと言うとですね。
これまた古~い言い伝えがあるのでございます。
ちょっとおじさん、さっきからオネエチャンばっかり見てるけど、私の話も聞いてくださいよ。
折角覚えて来たんだから最後まで聞いて下さいね。

さあ、始めますよ、帝釈天で有名になった訳を。
はいっ、この題経寺には日蓮さんが自分で刻んだと言う板本尊があるのでございます。
縦は二尺五寸、横一尺5寸、厚さは五分と言われます。アレッ、みなさん尺で言ったら分らないって顔をされてますね。今ふうで言うなら縦75cm、横45cmそして厚みが8mmくらいと言うのでしょうかね。その板には片面に南無妙法連華経と書かれ、もう片面には剣を持った帝釈天が描かれているんでございます。私にはただの真っ黒い板にしか見えませんがね。こんなことを言うと御前様にまた叱られちゃいますよね。

その板本尊が行方不明になっていたのでございます。1779年に日敬という住職が本堂を修理しておりましたところその板きれ、いや板本尊が棟木の上から見つかったのであります。そして4年後の1783年の天明の大飢饉の時に、その日敬が背中にその板本尊を担いで江戸を回ったところ、苦しむ人々にご利益があったとのことでございます。それで、この寺が帝釈天の寺として江戸中で有名になったんでございます。たいしたもんじゃございませんか?
田にしたもんだよカエルのションベン、見上げたもんだよ屋根屋のふんどしってね。

寅さん 帝釈天案内の巻(2)へ続く

丹羽慎吾

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です