シンゴ旅日記インド編(その44)アンボン事件の巻
インドは英国の植民地でした。しかしその始まりは17世紀から始まる東インド会社です。
東インド会社は英国の他にもオランダ、フランス、スウェーデン、デンマークなど欧州の各国にありました。
その西洋の諸国が進出して来る前の15世紀までのインド洋貿易の中心はアラブ・ぺルシャ人商人たちでした。当時のインド洋交易の中心は西海岸で北部のグジャラート地方のキャンベイとコーチンの少し北のカリカットでした。商品はキャンベイは綿織物、カリカットは胡椒、生姜、肉桂、白檀などの南方特産品でした。
1497年にポルトガル王の命によりヴァスコ・ダ・ガマがインドの西海岸に到着し西洋との交易が始まりました。ポルトガルは1502年にコーチンに商館を建て、翌年に要塞を建設しました。
ポルトガルは1510年にはゴアを奪い、翌1511年にはマレー半島のマラッカを占領しその後ベルシャ湾岸にも進出しインド洋全域にわたる海上覇権を確立しました。しかし1580年にポルトガルがスペインに併合されるとインド洋交易もスペインに継承されました。
そして17世紀になるとオランダの登場です。
当時オランダではアジア貿易に従事する会社が多く現れ1602年に合同して東インド会社を設立しました。この会社の狙いは東南アジアの胡椒と香料でした。西洋には当時肉料理への味付けが塩しかなかったのでしょうか。良い香りや味付けをする香辛料が欲しかったのでしょうね。料理を美味しく食べたいという人間の欲望でしょうか。
胡椒はインドでも取れたのですが、香料は特定の地域でしか取れませんでした。
インドネシアのマルク諸島の丁子(クローブ)、バンダ諸島のナツメグです。
香料の値段は胡椒の10倍もしました。この二つの諸島の中間にあったのがアンボン島です。
ここには当初ポルトガルが1522年に進出し要塞を築いて香料を独占的に扱っていました。
しかし、1599年にオランダがポルトガルを駆逐し、1605年にオランダ東インド会社が要塞を築き香料貿易を一手に収めることとなりました。
そして1611年にバタヴィア(ジャカルタ)に商館を建設しました。
英国もオランダに先立つ1600年に東インド会社を設立して1616年にインドネシアのバンダ諸島に進出しオランダと激しい競争をしていました。
その競争を打開するために1619年に英蘭協定が結ばれそれ以後の香辛料貿易は両国が共同事業として行い、その利益分配においてオランダの既得権益を尊重し、オランダが3分の2、英国が3分の1を取ることになっていました。
しかし、この英蘭協定をオランダの現地当局が無視していたため、怒った英国がバタヴィアでオランダ人を駆逐するなど過激な行動に出ていました。
そして1623年にアンボン事件(Amboyna Massacre)が起きたのです。
英国が東南アジアから手を引きインドにその足場を向けるきっかけとなった事件です。
そのアンボン事件には日本人が関わっていたのです。
当時すでに日本人はアユタヤやプノンペンに日本人町があったように東南アジアに進出していました。山田長政(1590-1630)がアユタヤの王様の傭兵であったようにアンボン島にも日本人傭兵がいたのです。
アンボン島の要塞の中には英蘭協定で英国商館が設置されていました。
その英国商館員がオランダの傭兵であった日本人を抱きこんで反乱を企てているという疑いが掛けられたのです。
それは1623年2月23日の夜のことでした。オランダの日本人傭兵の七蔵が衛兵に城壁の構造や兵員の数を聞いていたと言うのです。それを不審に思ったオランダ当局が七蔵を拘束して拷問に掛けると英国が要塞の占領を計画していると自白したのです。そしてオランダは英国商館長らを捕らえ、拷問の末にその占領計画を白状させたと言うのです。
その結果、英国人10人、日本人9名、ポルトガル人1名が処刑されました。Massacreといわれる所以です。処刑された日本人は50代の一名を除いて20代から30代の若者です。出身地は平戸と長崎が3名ずつ、残りは唐津、筑後、肥前が一名ずつの全員九州出身者でした。
そして英国はアンボン島から撤退しジャワ島のバンテンまで撤退しました。
これにより東南アジアの香料はオランダの独占するところになったのです。
この処刑にはオランダの東インド会社総督が仕組んだ陰謀であったとの説もあります。
その後オランダは1641年にマラッカをポルトガルから奪い、1658年にはセイロンからポルトガル人を追い出しました。また当時鎖国中であった日本の江戸幕府がカトリックであるボルトガル・スペインに警戒感を抱いていることに付け入って幕府を扇動してポルトガルの追い落としに成功し、欧州諸国の中では唯一の国として長崎出島で交易を認められていました。
しかし、オチがあるのです。
この1623年のアンボン事件が英国本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は決裂し、ついには外交問題にまで発展しました。
しかし、かつて同量の金と交換されたこともあった香料の価格が次第に下落し、それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めたのです。
それに対して、新たな海外拠点をインドに求めた英国は、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させたのです。
そして英蘭戦争が起こります。英蘭戦争は17世紀に3回、18世紀に1回起こっています。
第一次英蘭戦争は1652年から1654年に掛けて行われた戦争です。
これは英国によるイギリス海峡の制海権、航海法がきっかけでした。
アジアから富を満載して帰るオランダの船隊を英国が制海権、航海法を理由に拿捕したことによって起こった戦争です。
当時オランダの造船技術は大型軍艦を輸出するまでに発達していたのですが、自国では小型船が有利だとして大型戦艦を所有していなかったのです。それによりオランダの船隊はアイルランドの北を回るなどしたり、またオランダの諸港が封鎖されたりと経済的な打撃を受け、1654年に和睦(ウェストミンスター和約)が成立し、オランダ政府が賠償金を払い、戦争は終わりました。アンボン事件発生から実に31年後に、第一次英蘭戦争で敗北を喫したオランダ政府は実に8万5000ポンドの賠償金を英国に支出することで決着したのです。オランダ東インド会社の最盛期は1669年で軍艦40隻、商船150隻を有したと言われます。フランス革命の影響を大きく受け1799年に解散となりました。
丹羽慎吾