私の履歴書~土谷重美③入社・結婚
3.入社・結婚
就職試験の頃は、高度成長の名残でまだ売り手市場であった。経済学部の仲間は皆、銀行とか大手商社、生命保険などの一流会社を狙ったが、私は祖母の戦時下の物資不足の話を聞かされていたこともあり、メーカーを志望した。更に「鶏口となるもむしろ牛後となる無かれ」の教えに従い、大きい会社は狙わなかった。給料の安いところは仕事も楽であろうし、小さい会社であればいつ辞めても未練は残らないと椿本チエインと言う中堅どころの会社に潜り込んだ。1(尤も小さい会社は棲む世界も小さいことを後で知ることになるのだが)
工場研修もそこそこに真っ先に営業に回された。営業では工場と違い独身男性が少ないこともあって女子事務員の猛攻を受けた。一年も経たない内に「ツバキの※ジュリー」として社内報にも採り上げられ、「誰がジュリーを射止めるか」が彼女達の一番の関心ごとであったとは後から聞いた話。
学生の頃の経験で多少の扱いには慣れていた積もりであったが、社会人のそれはもう強烈。もともと自分から求めた恋愛は長続きしないことを知っていたので、相手に選んでもらおうと考えた。自分が求める側に回れば余裕が無くなって周りが見えなくなってしまう。貧すれば鈍する。「来たるを拒まず、去るも送らず」の自然体。
それで当てたのが今の家内。父親が早世して叔父が後見人。「一度叔父に会って」と言うので行って色々身辺情報を聞き出され「それでどうしてくれるんだ?」と切り出され売り言葉に買い言葉「貰いましょう。」それで終わり。あっけなく将来が決まって、実家には「結婚することになった。」と電話を一本。家にも縁談の写真が沢山来ていたらしいが…。
それまでは、「未だ世界中の女性とのお見合いが終わっていない。もっとふさわしい人が居るのではないか?」などと青臭い事を考えていたが後悔する暇も無かった。人生は、偶然の断片を拾うことによって収束してゆくと言う。1個の断片を拾えば、それ以外の可能性を全て失ってしまう。可愛いクラスメートのあの娘も、憧れのフィギュアのオネエちゃんも…。
男は、自分の母親に似た娘を選ぶと言う。その論理で行けば唇が厚く、無口で忍耐強い娘となってしまい退屈なサラリーマン生活が更に退屈になることは目に見えている。それよりは感情を即表面に出す都会の娘の方が退屈しないで良いかも知れないと無理やり自分を納得させた。この読みは的中して、事ある毎に衝突したが自分が折れれば済むだけの事。「生まれてきて御免なさい」と太宰治風に受け流す。
もともと「ゴムの様な男」を理想とし、事件が起こっても一旦は受け止める。変形しても難が去れば平然と元の姿に戻る。柳の如く…。
結婚生活と言うのは、後の問題であると思う。お互いに過剰な期待を持たず妥協するところは妥協して。夫婦生活はクラブ活動の合宿と同じ。1週間も顔を合わせていれば誰だって息が詰まってくる。プライベートな時間を充実させれば余裕を持って団体生活に当たれる。空気が足りなくなればプライベートな空間に引き篭もり、深呼吸してリフレッシュ。
結婚は若い時にすることだと思う。大人になってしまえばままごと遊びは出来ない。狭い社宅での生活ゆえ荷物は出来るだけ少なくと頼み込み、足りないものは手作りで間に合わせた。下は社内報に投稿したものだが、余程暇だったのか、よくこんなものを作っている時間があったものと思う。社宅の壁が汚くてペンキを塗ったらまだらになってこれを隠すために大きな絵を描いたこともある。
目隠し用の絵
(額も自作)
(昭和48~49年頃の社内報に寄稿)
土谷重美
~つづく~
(2ジュリー" は一世を風靡した歌手沢田研二の愛称=もてる男の代名詞であった)