コロンブスの里“ジェノヴァ”=私の想い出骨董品(6)

1992年8月、夏休みを利用しての南仏の旅行に出かけました。途中で急に思いついてイタリーのジェノヴァまで足を延ばしました。コロンブスのアメリカ大陸発見500年を記念した博覧会が開催されていることを知ったのです。途中でお昼をのんびり過ごしたのが間違いでした。到着が午後少し遅かった様子、皆さん会場から出てくる時間、しかも当日は最終日だったのです。片隅の記念品の販売も心なしか残り少なく店じまいを始めた様子でした。そこで残り一点だけと言う記念の時計を見つけて衝動買い。

電池の交換の時初めて裏の蓋を見ました。インドネシア製だがデザインはイタリーとなっていました。同じ電池を購入して自分で交換、裏蓋を外してよく見ると時計本体はセイコーエプソンの日本製、成程これなら安心、簡単には壊れないぞ!遠慮なくゴルフを一緒して貰おう。以来約20数年間のお付き合いの後、私のゴルフと共に引退して我が家の骨董として鎮座することになりました。

以上のような背景があって折に触れコロンブスに関する雑音が耳に入りました。まず彼はイタリー人ではない、ジェノヴァで生まれたのかどうかも疑問だと言います。記録など書いたものは全てスペイン語だと言います。話によると彼は何故西回りを考えたのか?ですが、先ずは香辛料で一攫千金を狙ったとか、或いは東方見聞録の黄金の国ジパンゴを目指したとか言われています。裏の声としてそれまでの南回りの予定の帆船がアフリカ沖で悪天候で流され、アメリカ大陸近辺から漸く帰還出来た、しかもただ一人の生き残りの人から話を聞いて俄かに冒険の思いを募らせたという話もあります。

彼の父は織物商人で、コロンブス自身も14歳から船に乗っていたようです。しかもスペイン時代に航海術や地図の勉強にいそしみ、懸命にポルトガルやスペインの王族に資金援助を要請、やっと1992年の丁度500年前、即ち1492年スペインの港から出航したと言います。この第一回の航海では西インド諸島のサン・サルバドル島を発見、翌年第2回航海に出るも大した成果なく、1498年の第3回航海でアメリカ大陸を発見したと言われています。これについても疑問があるようだし、ましてやその500年位前にヴァイキングの一派がアイスランドからグリーンランド、更に南下してカナダ沖からアメリカの東北部に上陸していたという記録もある由。

しかしこれを機会にスペインやポルトガルから大挙して中南米に進出することになった。特にスペインでは大喝采であったことは事実、しかし反面現地の人々は如何だったのか?

一度スペイン南部を旅した折、奴隷市場の後を訪ねたことがありました。小さな舞台で一人一人が品定めを受けた様子が感銘深く偲ばれたことを思い出します。

今回の投稿を機会に今もう一度コロンブスの話を調べてみようとも思う。その分だけ私の思い出骨董品も値打ちが上がるという気がします。

(今回はジュネヴァテでの写真は全く見つかりませんでした。当時の港の写真と言うものをネットから拝借します。丘の上のホテルに向かう途中眺めた景色に似ています。)

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