森本剛史君との想い出3~中学校時代・クラブ活動

森本君とは、小学校4年生から別のクラスとなり、中学校でまた一緒になったりしたが、家が比較的近かったこともあり会いたければいつでも会えた。お互いに他にも新しい友達ができ、常に一緒にいたわけでなかったが、何かあると声がかかるという関係はずっと続いていた。今回は中学時代の話である。

クラブ活動

城南中学校へ進んでからは、お互いにクラブ活動に力を入れるようになり、会う時間は減っていった。森本君はバスケットボール、私は野球に夢中になった。その昔、新宮高校野球部は甲子園で”古豪”と呼ばれた時期があり、高校野球ファンには平安高校や北海高校と並んで全国でよく知られていた。そんな過去の栄光もあり、練習といえばそれは厳しいものがあった。

毎朝、5時過ぎに近くの小高い山「蓬城山」に集合して、山道の階段を何十回と上り下りして走る。別の日には、大浜に集合して砂浜を1時間ほど走る、走る。私は身体はそれほど大きくはなかったが、運動神経には少々自身があり、小学校の少年野球(実はほとんどがソフトボール)では常にピッチャーで4番だった。意地もあって、1年生の春から毎日の猛練習に耐えて抜く覚悟でいた。

そんな頑張りにも限界があり、半年後の秋に実施された健康診断で非情な結果が待っていた。新入部員の1年生(20名くらいいたと記憶している)のうち私を含め9名が全員、急性腎臓病と診断され、即クラブ活動を中止せざるを得なくなった。これ以上やると本来の勉学に差しつかえるというのが理由だった。こうなると本人よりも親が反対する。こうして甲子園への夢は絶たれた。

昭和33年、長嶋茂雄が颯爽とプロ野球界に登場し、その大活躍で日本の全国民の目をひきつけていた。そして、新宮高校の前岡投手はあの金田投手の再来といわれ一世を風靡したのだ。甲子園で流れる校歌も素晴らしいなどと持ち上げられたりもした。そんなこともあって、地元の野球少年はみんな憧れをもって野球部に入り、練習がどれだけきつくても音を上げず、甲子園を目指して懸命について行ったのだった。しかし残念ながら前岡投手はプロではその才能を発揮することができずやがて忘れ去られていtった。

急性腎臓病、若年性高血圧症、ネフローゼ症候群などと診断された私は、尿にタンパクがたくさん出てしまう結果、身体のあちこちにむくみが出るようになった。向う脛を指で押すと、押した部分だけペコンとへこんで暫く元に戻らないという症状が典型的だった。以後、食事療法として塩気のものを食べられずに嫌な思いをしながら悶々と時を過ごした。

そんな状態が半年以上続いて、少し良くなった頃、運動好きだった私はめげずに今度は卓球部(野球部よりは少し軽めで楽だと思った)に入り卒業まで続けた。森本君はバスケットを続けていて、同じ体育館だったので、「おー、やってるな」と時々確認し合うような感じだった。ただ、クラブ活動に専念するあまり時間的な余裕がなくなり、小学校のときのようにいつもつるんで歩くということはなくなっていた。

天文部創設

そんな忙しい日々を過ごしていたある日のこと、剛(たけ)やん(みなずっとそう呼んでいた)が、当時城南中学校にはなかった天文部を創りたいと持ちかけてきた。そういえば、一度、校庭に天体望遠鏡を据えつけて、夜、希望者に星を見せるというイベントがあった。たしか、土星の輪っかがかろうじて見えるなどと騒いだことがあったような気がするがはっきりとは思い出せない。

思うことを何でもやってしまうのが剛やんの得意とするところ。提案してくることが何故か私にも興味のあることが多く、ついそれに乗っかることになる。結局、もう一人、クラスメイトの森誠君を加えて3人で城南中学天文部を結成!当時、森君の家が相筋というところにあり、町の灯りからはちょっと離れて夜になると真っ暗になる場所だったので、夜空の観測にはもってこい。徹夜して、星の移動写真を撮ったりした。

星の移動写真を撮る方法は、三脚にセットしたカメラのレンズを空に向け開放(バルブ)にしておいて、学生帽で蓋をする。一定の時間ごとに学生帽の蓋をさっとはずしてまた閉じるという原始的なやり方だった。これが結構うまくいったので、市が主催した何かの展示会に、太陽系の惑星の位置模型を作り応募した。冬場の徹夜観測は凍えるほど寒いので、あまり痛くない柔らかめのボクシンググラブをはめてお互いがプロボクサーの真似事をして暖まった。

部としての活動は結局大したことはしなかったが、何せ「無」から「有」を作ってしまうところが森本君の行動力の凄いところ。今、城南中学校に天文部はあるのだろうか?

~つづく~

西 敏

 


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