私のふるさと(?)~佐賀県佐賀市

ふだんは「福岡生まれの福岡育ち」を称している私ですが、実は幼いころ、父の転勤で隣県の佐賀に住んだことがあります。

『私のふるさと』という題で書こうとしたら、そのわずかな期間の佐賀での想い出が次々に浮かんでくるのです。生まれたのは福岡に違いなく、祖母に連れられて電停まで父を出迎えに行っていたそうですが、その記憶はありませんし。

福岡から佐賀への引っ越しは、鉄道でならまず南下して、鳥栖で西に向かうのですが、トラックだと県境の背振山地を越えていくのがずっと近道。

2歳を過ぎたばかりの私の最初の記憶は、このときの父と祖母と一緒の山越えです。母と生まれて間もない妹はもう一台のトラックに。

厳密に言うと、私の『原風景』は、ちょっと恥ずかしいのですが、遥かに青い山並みが見える山頂付近で「おしっこ」と言って父に抱かれてトラックを降り、木陰で用を足させてもらったことです。父は白地に藍色の模様の入った、今思えば、浴衣を仕立て直したようなシャツを着ていました。

ここを下ると、みつせ鶏の飼育で有名な三瀬村、あとはひたすら南を目指して、佐賀市の中心部に着きます。

その佐賀は、以前「はなわさん」がヒットさせた「佐賀県」の歌のとおり、印象の薄い、忘れられがちな県です。福岡の真西にあたる玄界灘に面する観光地・唐津、長崎との県境に位置する陶器で有名な伊万里・有田、ほかに最近発掘された吉野ケ里、点としては結構知られているのに、県全体はパッとしません。

幼いころはSLだったので、福岡の親戚を訪ねて泊まり、帰ってくると、体がいつまでも揺れていて寝付けなかったものですが、今は電車で40分、回数券を買うと片道千円あまり。ちょっと洒落たものを買うときには福岡に出かけてしまうので、街はさびれて行くばかりだそうです。

ところが、次の記憶は5歳くらいでしょうから、わずか3年分ほどの佐賀での思い出が、蓋の開いたおもちゃ箱から次々に飛び出してくるみたいに溢れ出てくるのです。

大人は自転車、子どもは歩くのが常でしたから、私の想い出もごく狭い範囲に限られています。住まいは佐賀駅から歩ける距離で、佐賀平野の真ん中、周囲には田圃がたくさんありました。(後で知ったことには、佐賀市の中心、佐賀城公園、お濠、県庁などはもう2筋くらい南でした。)
まだ車もほとんど通らない時代、大通りからちょっと入ったら、そこはもう、子どもの遊び場。鬼ごっこ、陣取り、メンコ、道を占領して遊んでいました。

稲刈りの済んだ田圃、天日干し(はざかけと言うそうです)、稲子積み・・・今も光景が蘇ります。
畦道に咲いた蓮華や数珠の実を摘んで首飾りを作りました。
張り巡らされたクリークのそばに竹藪があり、季節になると無数の蛍が飛び交いました。
みずすましやメダカすくいも遊びと言えば遊び。捕まえては放しました。 一度大雨の時に川があふれて、家の前の路地に魚が泳いでいましたっけ。
夏には、川に泳ぎに行きました。と言っても、泳げない私は近くのお宅の庭を流れる小川で遊ばせてもらいました。

ドアを手でひねって開けると上段に氷が入っている冷蔵庫のある氷屋の友達、立派なお屋敷住まいの仲良しのところには、暇さえあれば出かけました。白馬童子の看板のかかった映画館の前、キクとイサムのポスター、あれこれ思い出します。

通学路に紡績工場があり、その排水溝に、杏仁豆腐そっくりの塊が無数に浮かんでいました。流れて行くのか、たびたび観察していたような気がします。(今思うと公害の一種?) 工場は立ち退いて、図書館などが建っています。

校庭に相撲の土俵ができたとき、校長先生が「赤土と言う、ここらでは手に入らない高い土を使って造った」と言いました。福岡に戻ったら、あたりはその赤土だらけ、なあんだと思ったものです。
その土俵の脇に、ヒガンバナが一斉に咲き、子ども心に気味が悪いと思いました。

おとなになって佐賀に行き、懐かしの場所を巡りました。道路にしろ、水遊びしたお宅の庭にしろ、狭くて小さくて驚きましたが、福岡の街に住んでいたらできなかった体験を重ねた懐かしい場所には違いありません。
福岡では短期間に2回転校して緊張、じきに思春期の入り口に差し掛かりました。伸び伸びと子ども時代を過ごした佐賀こそ、ふるさとなのかもしれません。

 

 

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