続おぼろげ記憶帖 (1) 昭和と平成のパリ生活

一度目の渡仏は、1963年(昭38)4月に結婚し、夫は結婚一年を待たずして翌年1964年3月東京オリンピックが開催され、新幹線が開通した記念すべき年でしたがそれらを見ずに単身パリに赴任しました。2週間後に長男が誕生(1964, 4)、翌年1歳2か月の幼児を連れて私はパリへ向かいました。当時初めての海外勤務は一年の適応テスト期間を経て家族を呼び寄せることが出来る規則になっていました。24歳の時でした。北回りのエア・フランスが就航した年で1ドル370円、1フラン73円。当時はまだ家族が赴任するのは少なくて親戚中で“みずさかずき”(水盃)の時代でした。アンカレッジ、フランクフルトでトランジットをしてパリのオルリー空港に到着。父と子供の初対面でした。それから4年余りカルチャーショックや失敗やらを沢山に経験して1969年(昭44)7月にニュヨーク、サンフランシスコを経由して帰国しました。

二度目はちょうど帰国後20年後の1989年(平成元)1月から1996年(平成8) 8月までの7年半でした。もう二度とパリで暮らすことはないと当然のことと思っていました。パリ帰りなんて何と鼻に付く言葉でしょう。もともと話せないフランス語はすぐに忘れ、周りの人、お友達にも当時のことはあまり自分から話すことなくひたすら日本人でありたいと願って暮らしていました。そんなことでしたからとても驚いて辞令を素直に受け取れず、(本人はともかく家族が何も言うことも出来ないのは判っていますが)会社命令だからと自分を説き伏せ、昭和の最後の年の暮れに慌てて引っ越し準備をしたのでした。そして一度目とは違ったいろいろな経験をした生活でした。

パリの生活は政治や経済も20年の間にすっかり事情が変わっていました。その変化は時代がすっかり変わったという感じです。その20年の間海外旅行に一度も出たことのなかった私。旅券の写真は1歳の赤ん坊を抱いた写真でしたので新しい旅券を申請し古いのは “VOID”と文字抜きをされますが、これが旅券係の人をもびっくりさせてしまいました。

そして帰国後は長い休暇が取れなくて行くことの出来なかったフランスの地方、スイスやチュニジアへの旅行の帰りに何日かは滞在していました。その間に貨幣がフランからユーロになり、レシートには両方の金額が出ていて私のように頭の中はフラン立てになっている人にはまことに親切だとありがたく思いました。フランス人でも多くの人がそうであったことと思われます。でも帰国後早や25年になります。この間にパリ、フランスはどんな変化があったのでしょう?一度目の暮らしから半世紀以上過ぎた今をゆっくりとこの目で見たい、空気を吸いたいと思いますが年齢も体力もそれが実現できなくて、叶わぬ夢になりとてもとても残念に思っています。

この機会にパリ生活の思い出やカルチャーショックなどを思いつくままに記録しておきたいと考えています。                            

(写真はパリのオルリー空港で家族再会。右はモスクワ見本市に出席する父。同じ飛行機でした。)

                               

東 明江

 

 

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