天才と凡人 ~中川牧三―近代日本の西洋音楽の歴史を創った人物~その3
(前号から)この逸話を私がおもしろいと感じたのは次の逸話を思い出したからである。
それは、音楽の恩師で日本イタリア協会会長だった(故)中川牧三先生が若い頃、作曲家の近衛秀麿氏と一緒にヨーロッパを訪問されたときのことだった。
先生は、超有名人であった指揮者フルトヴェングラー氏に面会ができ、彼のスコア(オーケストラの総譜)を見せて頂き、且つスコアを一晩だけ貸して頂けたのである。
近衛秀麿氏(後述)と中川先生の二人で、フルトヴェングラー氏直筆の音符や注意書きを徹夜で写しまくったそうである。
楽譜に記入された事項は演奏家(指揮者)にとって企業秘密に相当する貴重品である。どんな演奏家でも自分の使っている楽譜を友人はおろか弟子にすら見せないのが普通である。またこの高名な指揮者に面会(アポ無し)することすら不可能という時代だった。ところが、アジアの小国からヨーロッパに着くなり、千載一遇のチャンスを得られたのは一体何故なのか。
私が先生に尋ねた「何故、何故?」と、質問が炸裂さいたのは当然である。一般人にはありえないことが起こっていたのである。
熱心な質問に対し、先生は笑いながら答えてくださった。
「近衛さんは多少作曲家として名を知られていた。それ以上に日本のプリンスとしてどんな貴族とも有名人とも面会が可能だったのだよ。フルトヴェングラーもアジアのプリンスに気を許したのだろう。そうとしか考えられない。」
先生のお答えであった。
(なお、中川先生の家系は近衛家と同じ高位の公家であり、ご両親と近衛家は親しく親戚付き合いをされていた。)
当時中川先生は、近衛秀麿氏を後見人としてヨーロッパに音楽留学されるために近衛氏と同道されていた。(最初はヴァイオリン留学であった。先生は、それ以前に京都で同志社のオーケストラを創設しバイオリン演奏と組織運営を兼ねていた。)
貧乏書生だった福澤諭吉と日本のプリンス(新憲法下では廃止の制度)としての近衛秀麿氏と中川先生、彼らの社会的地位には大きな違いがあったが、学問研究への情熱と行動はまったく変わらないものだった。
(次号へ続く)
杉本知瑛子
大阪芸術大学演奏科(声楽)、慶應義塾大学文学部美学(音楽)卒業。
中川牧三(日本イタリア協会会長、関西日本イタリア音楽協会会長))、森敏孝(東京二期会所属テノール歌手、武蔵野音大勤務)、五十嵐喜芳(大芸大教授:イタリアオペラ担当)、大橋国一(大芸大教授:ドイツリート担当)に師事。また著名な海外音楽家のレッスンを受ける。NHK(FM)放送「夕べのリサイタル」、「マリオ・デル・モナコ追悼演奏会」、他多くのコンサートに出演。