十男 新聞記者になる
11人きょうだいの末っ子「十男」のボクは高校生時、公務員などを希望する就職コースのクラスにいた。部活動は新聞部。年に3~4回発行する高校新聞を取材、制作していた。新聞を作る楽しさや読者(高校生)の反応に新聞作りが非常に魅力のあるものだと、感じ始めていた。
高校3年になり、担任に「先生、僕は高校卒業後に新聞社で働いてみたいとも思うのです」と言った。
「どんなことしたいの?運転手、バイト?」と先生。
「記事を書いたり校正したり、見出しをつけたりします」とボク。
「そりゃ、大学に行かんとだめだよ。」
「えっ!?」
常識がないといえばそうなのだが、とても新聞社希望者の心得ではなかった。
同学年で友人のAさんがボクの将来の夢を知ると「吉原君、この夏、死んだ気で勉強する気があるなら僕と毎日勉強しよう。国語、社会はまあまあだろうから大学は英語が勝負になるよ」と言う。夏休み、彼がボクの下宿に訪ねてくるようになった。「ともに勉強する」は口実で彼が実質的な家庭教師だった。英語のリーダーや受験テキスト、大学入試のポイントなど細かく教えてくれた。同学年なのにまるで「師弟関係」、特訓は夏休み中続いた。
決して裕福とはいえない農家の十男の父親の進学条件は授業料や生活費が安くつく「国公立、近くの大学」だった。ボクは唯一受験した市立北九州大学(現北九州市立大)英文科に合格した。ボクにはできすぎの大学だ。Aさんはとても喜んでくれた。(※Aさんは一浪後に日本最高学府といわれる大学に進んだ)。
4年後、ボクは大手Y新聞社を受験した。長嶋茂雄大好きがその理由の一つだったかも。幸運にも数か月前たまたま読んだ(ふだんは読んでいない)英字新聞の記事が英文和訳の問題にそっくり出た。合格した。高校時代の夢が今実った。Aさんと大学進学を許してくれた両親・家族ら多くの人に心から感謝した。
(吉原和文)
(写真は「高校3年の夏、裏山で勉強ひと休みの筆者=Aさん写す」)