十男60歳 葬儀1か月後、兄ちゃんがまた死んだ
四男の死(享年73)から1か月後、76歳の二男が亡くなった。晩年は脳梗塞から色々な病気を併発した。弟の死を知らされ病床で号泣した。
二男だが長男が夭逝したためお鉢が回って家長・当主に抜擢された。勉強が嫌いではないが、苦手だった。その上、上手に立ち居振る舞いができない。「器用でない人」が望みもしなかった当主になり生涯の重荷になったのではないか、と思う。
父が兄を隣町の蔵元に住みこみで働かせることにした。社会勉強させる配慮だったろう。ボクが高校生の頃だ。働き始めて1週間後くらいして兄がボクの下宿に訪ねてきた。「おれ、(仕事)やっぱりついていけないんだ。家に帰りたい」と泣きそうな顔で言う。聞けば杜氏仲間と共通の話もなかったようだ。ボクは「仕事を辞めて家に帰ったら」とは言えなかった。とりあえず500円をポケットに入れ、近くの軽食喫茶に行った。高価だが思い切って鍋焼きうどんを注文した。卵も野菜もたっぷりで寒さを吹き飛ばすくらい熱く、二人黙々と食べた。話もとりとめのないものだった。食後、兄は「もう一度、職場に行ってみるよ」と言った。嫌々だったのだろうがそう言った。
数週間後、「どうにか勤めを終えて帰ってきたよ」と父から連絡があった。
ボクが新聞社に入社が決まった時、親と同じように喜んでくれたのが兄だった。弟・六男は警察官で「警官やマスコミ関係者が兄弟にいる限り、わしは頭は悪いが悪い事だけはできないなぁ」が楽しそうにボヤいていた。身内だがこんなに偉ぶらない人に出会ったことがない。結婚後、2男1女をもうけた。家業を守り、両親を夫婦で最期まで看た。人間、勉強だけじゃない、大切な事をちゃんと果たすこと。周囲の心配をよそに不器用兄は成し遂げた。もちろん義姉のサポートも大だ。ボクら下の兄弟夫婦は義姉を目標にした。
「わしは何もできない人間」と口癖だったが「とんでもない。兄さん、(自分のいいところ)分かってない。あんたのおかげにボクら下の兄弟はみんな自由に生きられた」。
一緒に食べた鍋焼きうどん、物凄く安くついた、ボクのその後の人生にとって、そう思う。
=庭先で休憩中の兄を写す、写真を撮られるのがあまり好きでなかった兄の珍しい1枚=
吉原和文