北米大陸横断ルート66単独ドライブ:その12 東賢太郎

 LAからサンフランシスコへ向かった。614km。東京から姫路までの距離だ。これで私は何カ国訪れただろうか。話は1971年に遡る。

大学2年の2月に、横浜からソ連の船(バイカル号)でナホトカ軍港へ入り、汽車でハバロフスク、プロペラ機でモスクワ、列車でポーランド〜チェコスロバキア経由でウィーンまで全7日間。当時この往復が一番安いコースだった。この旅は、作家五木寛之の小説「さらばモスクワ愚連隊」や小田実の体験記「何でも見てやろう」の影響を受け参考にしたのだ。

その後は、欧州全土の一等列車を2ヶ月間乗り放題のユーレイルパス(75000円)で旅した。しかし、スペインでそのパスを紛失。多分ユースホステルで盗まれた(その名義人しか使えないのに)。その後は、全てヒッチハイクと安い二等車の旅。

ベルギーやオランダ辺りはゲイの男性が多かった、車に乗せてくれた優しい紳士に手を握られたり、自宅に泊まれと誘われたり。ヤバいので当然辞退して逃げた。その後、私は国内海外でも、男性の目つきや仕草でその男性がゲイか否かが分かるようになった(^-^)。何気なく身体に触れてくる男性にはご注意!

私はその後も毎年国内海外をバイクか車で一人旅している。その癖は私が小学2年(65年前)の夏休みからだ。父が私に旅仕度させ、東京駅で蒸気機関車に乗せた。そこで私に切符を渡し「鹿児島駅で叔父さんが待っているから」と言って汽車を降り、私を見送った。

心細いひとり旅は、一緒の席の見知らぬおじさんやおばさんの優しさで汽車の旅を楽しむ事ができた。そして、そのひとり旅が癖になってしまい、今に至る。そんな沢山のエピソードは又の機会に書きたい。

LAから太平洋側を北上し、ノンストップでサンフランシスコへ。

昔「太平洋独りぼっち」の堀江謙一が目指した金門橋や港があり、坂道が多い都市の景色は変化に富んでいた。電話帳で見つけた小さなホテルに泊まった。 私は若い日本人として舐められたのか、電話で効いた料金より高額な料金をふっかけられた。私は態度を変えてドスの効いた英語混じりの日本語で「怒鳴り散らした」。それで円満解決(^-^)

私は学生時代、バンドで「サンフランシスコベイブルース」を歌っていた。シスコのライブハウスで促されてそれをギターで歌い、ついでに日本のトラディショナルとして古賀政男の「影を慕いて」も。これは通じるはずはない。

3度目の滞在で特に記する程の事はなく一泊して更に北へ、カナダ国境に面したシアトルを目指した。途中何回か若いヒッチハイカーを乗せた。即席の英語やスペイン語教室。私も若い頃、北海道往復ヒッチハイクしたことがあったので、日本でも海外でも積極的に乗せてあげる。この旅の話は2010年夏、12年前の事で、現在米国ではヒッチハイクでのトラブル抑制の為にいろいろ規制があるらしい。

 最終目的地シアトル(カナダ国境の港町で、イチロウのマリナーズ)は初めての訪問。街はとても綺麗で気候も良く、街中にカフェが驚くほど多い。私はここが「スターバックス」や「タリーズ」の発祥地であることを知らなかった。

街を見下ろす展望タワーや、音楽博物館には世界の有名ギタリストのギター「マーチン、ギブソン、ギルド、リッケンバッカー、グレッチ、他」等が展示されて、ギターを弾く私はその歴史が興味深く、訪れた甲斐があった。

シカゴでレンタルして走った約6000kmの旅を終え、車を「アラモレンタカー」へ返却した。遠く離れた他の都市での乗り捨ての追加料金はたったの150ドル。米国はレンタカーが超安い!有料道路も無かった。

シカゴとサンタモニカを結ぶ「米国大陸横断Rout66、3755km」は,1926年に出来て1985年に州間高速道路の発達とともにその役目を終え、その道路名は地図上では消え、道は各所で寸断されてはいるが、古いガスステーションや古い映画に出てきた食堂「ダイナー」等は少し残っている。そして、正に米国の歴史的マザーロード(スタインベックの小説で映画化もされた「怒りの葡萄」でそう呼ばれた)として、現在でも世界中から人々がこのヒストリックロードを走りに来て、アーリーアメリカンの痕跡を楽しんでいる。

特に日本の団塊世代の皆さん。昔々、アメリカのTVドラマ、若者二人がシカゴからLAまでの2000マイルを旅した「ルート66」を覚えていらっしゃる方は是非同じコースをドライブしてみてください。        (完)

東賢太郎(74歳)5号棟

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