囲碁、そして仲間たち [囲碁交友録](その1)

[囲碁交友録](その1)

中学生のころ、同級の杉田君から碁を教わって、60有余年が経過しました。この間、囲碁を通じて国の内外を含め多くの人たちとの出会いがありましたので、その人々との交流を想い出しながら書いてみようと思います。

前出の杉田君とは、35年前、私が転勤で東京に出てきてから再会し、当時新宿にあった碁会所で月に一度対局する等、いまだに交流を続ける「竹馬の友」ともいえる小学校時代からの友人です。再会した当時、彼とは互先の手合い(*)でしたが、最近は私の方が2,3子棋力が上回ってきました。それでも彼は絶対に黒を持つ(*)とは言わない(あるいは、言えない)のです。

私も彼の心情を考えて、敢えて言わないようにしていますが、彼がもう少しで勝ちそうな碁を負けて口惜しそうな顔をしているのを見るのは快感とは言いませんが、なかなかいいものです。川柳にあるとおり「碁敵は 憎さも憎し なつかしき」です。その彼が昨年の夏、稲城長沼に引っ越してきましたので最近は月に2,3回我が家にやってくるようになりました。これからも末永く「手談を交わす」(*)ことが出来ることを祈っています。

互先の手合い  : 棋力が同じ相手がハンディなしで対局すること
黒を持つ :相手より棋力が低いと自から認めること
手談を交わす :囲碁を打つこと。「手談」は囲碁の別称。

高本さんは、会社の先輩のみならず、囲碁の大先輩です。彼は60年前、長崎大学で囲碁部を創立した猛者ですが、囲碁の打ち方は非常に穏やかで、最初はどう打っても勝てそうだと思っていてもいつの間にか負けてしまうと言う摩訶不思議な人です。一年間に千局以上打つと言いますから、これも頭の下がる思いです。高本さんとは日本棋院のニューヨーク碁センター(New York Go Center: NYGC)で3か月間、囲碁指導に行った楽しい想い出があります。今から10年ほど前、ニューヨークは厳しい寒さも緩んで、街路にはリンゴの白い花が咲き始め、セントラルパークではライラックやマグノリアが華やかな花をつける頃でした。

このニューヨーク碁センターは、20数年前プロ棋士の岩本薫先生が東京の家屋を売ったお金で基金を作り、その資金でビルを購入し、アメリカでの囲碁普及の拠点として作られたものです。碁センターには対局室に加え、寝泊まりできる部屋があり、畳を敷いた2畳ほどのスペースがありました。通常、日本から行く指導員は一人の場合が多く、布団は一人分しか置いてありませんでしたので、仕方なく二人で一つの布団にくるまって3か月間を過ごしたものです。ですから、高本さんとは「同期の桜」ならず「同衾の桜」と思っています。

Paul Andersonさんは、元US IBMの社員で、30数年前に彼が日本に赴任していた頃、会社の囲碁部の例会で出会ったのが初めでした。何回か碁を打つうちに、彼の自宅(目黒の高級マンション)で仲間を集めて囲碁大会をしたい、との話があり私が幹事役を引き受けることになりました。Paulさんがアメリカに帰る数年間、且つ、年に一回だけの囲碁大会でしたが、20名近くの囲碁仲間が集まって、楽しく過ごしました。最後の年、彼から「週刊誌の記者がインタビューに来るので、お前がわしのことを一番知っているから立ち会ってくれ」と、言われて通訳をしたことも懐かしい想い出です。
その後、彼がニューヨークへ帰ってからも、韓国遠征(*)にかの地から日本人の奥様ともども参加するなどして交流が続きました。また、我々もニューヨークへ行った折には、郊外にある彼の家に招待されて、特製のビーフステーキをご馳走になったものです。その彼も数年前、病を得て他界しました。

*韓国遠征:25年ほど前から韓国IBM囲碁部の連中と毎年一回囲碁を通じて交流を続けています。一年おきに東京とソウルを訪問して日韓囲碁対抗戦をしたり、お酒を飲んだりして友好を重ねています。

牛島さんとはやはり会社の囲碁部の集まりで知り合いました。一番の想い出は20年ほど前、彼がIBM退職後、JICAから派遣されて中国・大連でIT会社のコンピューター・システム開発のお手伝いをしていた頃です。その数年前、日経新聞に日本の文士が中国各地で囲碁交流を行いながら旅をする記事が載っていました。圧巻は揚子江の三峡下りの船上で同行した中国の棋士が、李白の「白帝城」を朗々と吟じる場面でした。その記憶がありましたので、牛島さんに日本から囲碁仲間を連れて行くので、大連の人達と囲碁交流をしたい旨、手紙で連絡しました。

偶々、牛島さんが親しくしている中国人で、子供たちにも囲碁を教えている大連囲碁界の長老ともいえる人がいて、その人を通じて中国の囲碁好き10数名を集めてくれました。私は大連で囲碁交流をするだけでは物足らず、以前、日経新聞で読んだ記事のように、あの雄大な揚子江を下りながら漢詩の世界に浸ってみたいとの希望がありましたので、その事も手紙に記しておきました。当時、揚子江の中流では世界最大となるダム(三峡ダム)を建設中で、このダムが完成すると揚子江下り(三峡下り)が出来なくなるとの噂もあり、決行する良い時期だと判断したからです。

この企画を会社の囲碁部メンバーに発表すると、20名近い希望者がありました。その中には中国人でIBMの社員として働いている若い夫婦がいたり、その夫婦を通じて愛知県の湯谷温泉のご主人が、私も連れて行って欲しいと、言って参加したりと多士済々の人達が集まりました。その年の秋、待望の中国囲碁旅行が実現しました。大連では一流ホテルの赤い絨毯が敷いてある大広間に囲碁大会の会場が設営されており、まるでプロ棋士の大会のような雰囲気でした。大会が終わっていよいよ三峡下りですが、ここでは割愛します。その後、牛島さんは大連にいる間、現地の人達との交流や見聞したことをエッセイ「アカシア便り」として、毎月送ってくれました。

[余談]
囲碁は基本的には陣取り合戦ですが、日本ルールと中国ルールで少し違いがあります。日本ルールでは陣地の大きさ、つまり、陣地が何目(もく)あるかを競いますが、中国では盤上にある石の数の多さで勝敗が決まります。中国ルールで陣地は、そこに石があると見なされます。中国で大会を行う際、日本人には石の数え方が難しいので、会場に裁判官(日本の審判員)が配置されます。一局終わって合図をすると、その裁判官が来て、石を数えてくれますので、対局者は結果が出るのを待っています。その他、終局近くの打ち方に多少の違いがありますが、これらのルールの相違によって結果が違ってくることはほとんどありません。

兵頭 進

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