新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(下)

日本による占領と軍政

イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していました。このため1941年に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けました。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わりました(シンガポールの戦い)。

その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名されました。その後日本から多くの官民が送られ、過酷な軍政が敷かれることになりました。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために強制徴用されました

また当時は日中戦争の最中でもあったため、中華系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の「布告」を発行し、抗日独立運動家やその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害したといわれています(シンガポール華僑粛清事件)。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成しました。

再びイギリスによる植民地支配へ

1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなりました。

しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国イギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになりました。第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれていきます。

マレーシア連邦

1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任します。その後1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦(Malaysia)を結成しました。

しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化していきました。1964年7月には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生し死傷者が出る事態となりました。

分離独立

1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより関係が悪化します。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流しました。

(西 敏)

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