ロックフェラーの素顔(4)

3) 石油精製への進出

1859年8月27日、エドウィン・ドレイクは、ペンシルベニア州のタイタスビルで、石油を掘り当てた。これが、ペンシルベニア北西部が「オイル・リージョン」として知られるようになる熱狂的な石油ブームの引き金となった。原油の出る油井を発見すると、巨大な利益を上げることができるからである。しかし、一攫千金を夢見る人々がこうした場所に押しかけた結果、原油はたちまち供給過剰となり、価格は暴落した。

JDRは、こうした状況を目にして、原油採掘はリスクが高すぎると判断。より安定した原油を精製する事業を手掛けることにした。彼は、油田地帯とクリーブランドを結ぶ鉄道が開通すると、その線路のすぐ横に製油所を建設。それは、その地域で初めて灯油を生産できる設備であった。灯油は、安価で清潔なランプの燃料として使われ、需要は急拡大していく。JDRはこの事業が富をもたらすことを確信した。これこそ、自分の運命的仕事と考え、多額の借金をして、事業の拡大に邁進する。そして、1870年1月10日、スタンダード・オイル・カンパニーが、JDRによって創設された。

 

4) スタンダード・オイル・トラストの成立

しかし、石油精製業者も乱立し、余剰能力と価格引き下げ競争が起こる。1871年、JDRはこうした状況を解決するため、すべての石油精製会社を1つの大組織に統合する計画を密かに作り上げた。計画は、クリーブランドのすべての競争相手を買収することから始まった。まずは、もっとも手強い製油所から始めるのが、彼のやり方である。というのも、もし小さな製油所から始めたならば、価格をつりあげられることになり、強力な抵抗に遭うと考えたからである。1872年4月までに、JDRはクリーブランドの大部分の製油所を買収ないし合併した。効率が悪く安普請の製油所は廃棄され、良いものは、彼の納得する基準を満たす状態にまで改良された。

1879年までに、スタンダード・オイルは、アメリカの石油精製の90%を担う企業となっていた。その製品のほぼ7割は、海外に輸出された。事業は余りにも巨大かつ複雑になり、JDRは、重大な問題や大まかな状況についてのみ関わるようになっていく。1882年1月2日、スタンダード・オイル・トラストが設立され、JDRは、43歳にしてそのトラストのリーダーとなったのである。

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