ヤタガラスの「教えてワイン!」25チリワインの歴史

南米大陸のワイン造りの歴史は、征服者であるスペイン人の手によって、16世紀に始まったといわれている。キリスト教のミサに欠かせないワインを現地でつくるために、征服者とともに新大陸に渡った宣教師らがぶどうの苗木を持ち込んだものだ。

植民地時代初期の年代記によると、チリへは、1548年、フランシスコ・デ・カラバンテス司祭によってぶどうの苗木が持ち込まれたとある。17世紀に入って、スペイン王室は本国でのワインの生産と独占貿易を保護するため、新大陸でのぶどうの新植を禁止したが、その法律が実行力を持つことはなかった。

19世紀には、チリのワイン造りに革命的な変化が訪れた。その要因となったものは、フランスの実業家が持ち込んだフランス系品種の導入にあった。当時、ヨーロッパのぶどう産地を襲った害虫の発生は、主要産地のほとんどをほぼ全滅という状況にまで追い込んだ。この時、自国で職を失った醸造家たちの多くが新天地を求めて南米の産地へと渡ったのだ。この時持ち込まれたフランス系の高級品種が、現在のチリのワイン造りを支える基礎となっている。

20世紀に入ると、チリのワイン生産は停滞期に入った。主な原因としては、1900年代初頭の酒税の増税、1938年に施行された新アルコール法によってぶどうの新植が禁止されたことなどが挙げられる。また、第二次世界大戦中、農業機械や醸造機械の輸入が実質的に禁止されたことも、ワイン造りの技術的な進歩を阻害することになった。

1974年にアルコール法が撤廃され自由化されると、チリワインは生産過剰による価格の急落で危機的状況に陥ってしまった。しかし、1980年代、19世紀から続く大手の伝統的なワイナリーは株式会社化を本格化させ、新興財閥グループに組み込まれる形で経営再建を図っていった。また、地元の中小ワイナリーと共同でブティックタイプのワイナリーが創設されるなど、チリのワイン造りはビジネスとして著しい近代化を遂げていった。

1990年代の新自由主義改革後、チリのワイン造りの技術は劇的に変化した。フランス、スペイン、カリフォルニア等のビッグ・ワイナリーが、ワイン醸造に最適な気候、風土、また、安価な土地代、労働力に魅力を感じ、次々と資本を投下し、ヨーロッパの技術を積極的に導入していった。1992年から1997年の間に、チリはヨーロッパのワイン製造装置の輸入国として世界最大となった。チリに渡ったトップクラスの技術者たちが、最適な環境の下、最高の技術で取り組んだことで、チリのワイン生産は大きく発展していったのである。

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