随筆

ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(9)

6.子供達の悲劇  ジョン・D・ロックフェラー(JDR)は、4人の女の子と1人の男の子をもうけた。エリザベス(通称ベッシー)、アリス、アルタ、イーディス、ジョン(通称ジュニア)である。ただし、二女のアリスは、幼児期に亡く […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(8)

3) ロックフェラー医学研究所 「神が人類のために授けてくださった財産をどのように使うか」という問題は、1900年に入りスタンダード石油の持ち株などの資産価値があがるにつれ、JDRにとって、より深刻なものとなっていった。 […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(7)

5.巨大な富の重圧 1) 寄付を求める人々  1980年代後半になると、JDRは、大富豪としてもマスコミに取り上げられるようになった。それとともに、彼のもとには、寄付を求める人々が押し寄せるようになる。彼の出かけるところ […]

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福沢諭吉
福澤諭吉と「独立自尊」

福澤諭吉と言えば「独立自尊」と反射的に出てくるくらいに、これは有名な言葉である。 では、果たして実際に、真の意味でこの言葉を正しく理解できているのかと問われると、自分自身、心もとない限りである。そこで福澤が言わんとした「 […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(6)

マスコミによる批判  JDRの名前がマスコミに出てくるのは、「サウス・インプルーブメント・カンパニー(SIC)」騒動の時である。SICは、JDRと彼の仲間が株主となったペーパーカンパニーであった。SICは、鉄道会社と協定 […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(5)

結婚と家庭  1864年9月8日、25歳のジョン・D・ロックフェラー(JDR)は、高校時代の友人ローラ・セレスティア・スペルマンと結婚した。2人が知り合ってから結婚に至るまでに、9年もの歳月がかかったのは、JDRに比べ、 […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(4)

3) 石油精製への進出 1859年8月27日、エドウィン・ドレイクは、ペンシルベニア州のタイタスビルで、石油を掘り当てた。これが、ペンシルベニア北西部が「オイル・リージョン」として知られるようになる熱狂的な石油ブームの引 […]

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福沢諭吉
福澤諭吉と英語(4)

前号では Society の翻訳語として、当初福澤諭吉は「人間交際」という訳を当てたと書いた。 当時、Society に対応する言葉がなく、これを日本語に訳出することは相当な困難があった。その状況で、「人間交際」という翻 […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(3)

2.成功への軌跡 1)生い立ち 幼少期に経験したことが、その後の人生に大きな影響を与えていることを発見することは、珍しくない。それは、精神の奥深くに刻みこまれ、自分では意識していないものの、それに逆らうことは難しい。JD […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(2)

2)カイカット カイカット(Kykuit)は、JDR晩年住んだ邸宅である。さらに、彼の孫の代までが、この家の主となった。この数年JDRについて調べていた私は、この大富豪が一体どのような大邸宅に住んでいたのか、是非この目で […]

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ロックフェラー
ロックフェラーの素顔(1)

はじめに 「ロックフェラー」という名前をお聞きになった方は多いと思う。例えば、「ロックフェラー財団」とか、ニューヨークのマンハッタンにそびえる「ロックフェラーセンター」を通じて。しかし、ジョン・D・ロックフェラー(以下J […]

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アクラ訪問記
野口英世最期の地アクラ訪問記(6)

6.おわりに 今回、実際にアクラを訪問して感じたのは、現地の気候と生活環境の厳しさである。英世が滞在した1927-28年当時は、クーラーはなく、水や電気の供給も十分ではなかったはずだ。さらに、英世の51歳という年齢(現在 […]

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福沢諭吉
明治十四年の政変と福澤諭吉(2)

(前稿から続く) ◆『明治十四年の政変』の顛末 明治維新以後、全国各地で明治政府に対する反乱として「佐賀の乱」や「萩の乱」などが勃発したが、明治10年「西南戦争」を最後にその勢いは収束した。 福澤諭吉は明治12年、「国会 […]

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アクラ訪問記
野口英世最期の地アクラ訪問記(5)

3)リッヂ病院 (Ridge Hospital) 1928年5月、野口英世は、アクラでの研究を終えニューヨークへ戻る前に、ロックフェラー財団のラゴス本部へ顔を出すことにした。ラゴスは、西アフリカ最大の都市で、現在はナイジ […]

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福沢諭吉
明治十四年の政変と福澤諭吉(1)

2013年6月初旬にロンドンに旅行する機会を得た。ロンドン再訪は十年ぶりのことだ。(それから毎年のように訪れることになるのだったが。) 訪問に先立ち、英国の歴史、文化などをおさらいした。旅をより充実させたいと思い、旅程に […]

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アクラ訪問記
野口英世最期の地アクラ訪問記(4)

2)コレブ病院 (Korle-Bu Teaching Hospital) コレブ病院は、1926年、当時の英領ゴールドコーストに住む現地人のための病院として設立された。 写真3 衛生検査技師養成 設立時の名称は、ゴールド […]

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アクラ訪問記
野口英世最期の地アクラ訪問記(3)

5.アクラにおける野口英世の足跡 1)ジェームスタウン(Jamestown) 1927(昭和2)年10月22日、野口英世はアメリカ客船スキシア号に乗り、ニューヨークを後にした。スキシア号は、アクラ行きの船の乗り換え地であ […]

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アクラ訪問記
野口英世最期の地アクラ訪問記(2)

3.アクラへの道のり 日本から、アクラへの直行便はない。ヨーロッパのロンドン、アムステルダム、ローマ、または、エジプトのカイロ、中東のドバイなどへ行き、そこからアクラへ行く飛行機に乗り換えることとなる。私たちは、最近非常 […]

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アクラ訪問記
野口英世最期の地アクラ訪問記(1)

1.アクラ訪問への逡巡 野口英世とジョン・D・ロックフェラーの取材のため、三浦基弘前編集長とともに、アメリカ東海岸を旅したのは昨年5月。この旅の終わりに、「今度は、野口博士が亡くなったアフリカに行ってみましょう」と、三浦 […]

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野口英世
野口英世の遺功を米国に訪ねる(5)

5.ロックフェラー・アーカイブ・センター 英世は、西アフリカのゴールド・コーストのアクラ(現在のガーナの首都)で、黄熱病により亡くなった。 当時、黄熱病での死者は現地で火葬されたり、埋葬されていた。しかし、米国のロックフ […]

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