フランスあれこれ58~戦場(I)ヴェルダンの戦い

 皆さん、アルザス・ロレーン地方という名前はご記憶にあると思います。現在フランスの一部ですがそう言えるのは正確には第二次大戦以降ではないでしょうか。それまでドイツとフランスの間で領土合戦が繰り返された歴史があります。その理由はライン川の交通とロレーン地方の石炭と鉄鉱石です。ラインを挟んでドイツと向き合い、ライン川沿いにドイツの産業都市が並びます。他方フランスはやはりパリが中心だけにこの地方から距離があります。しかしライン川を挟んで地続きとしてはフランスと言えるでしょう。以上が係争の背景です。

1914年サラエボ事件に端を発し、欧州の同盟関係が次々に巻き込まれ世界戦争(第一次世界大戦)に発展しました。(背景や経緯は省略するとして)西部戦線ではドイツとフランスが激しく戦うことになります。膠着状態が続いた後、1916年2月この時とばかりにドイツ軍がラインを越えてロレーン地方に攻め込みます。兼ねてそれを警戒していたフランスはヴェルダン(ロレーン地方北部)近郊に守りを主体にした要塞を築いていました。全てが地下壕です。産業革命の後でもあり、強力な大砲は無論、戦車や戦闘機まで登場しました。近代戦争の初期でもあり、考えられる安全体制であったと思います。18か月に及ぶ一進一退の激戦が続き、独仏合計で戦死者70万人と言われます。

  ヴェルダンの近郊に街を取り巻くように塹壕が設置されていました。中でも一番突出していたドウオウモン要塞の攻防が激烈を極めました。後のドゴール大統領が当時陸軍大尉、負傷して三年位の間捕虜となったといわれます。その後第二次大戦下ドイツの占領下でドイツの傀儡政権を担ったペタン将軍が、当時の司令官として赴任、何とかドウオウモン要塞を取り戻します。遂にドイツ軍がヴェルダン突破を果たすことが出来ず、翌年11月コンピエーニュの森での休戦協定(註)に辿りつきます。

30年位前この地を訪ねました。激戦地ドウオウモンには両軍戦士の墓地が広がります。敵味方を問わず、また植民地からの異教徒の墓も。日本とは趣の異なる雰囲気に驚きとともに心打たれる感傷を覚えたものです。

(註)コンピエーニュの森での休戦協定についてご紹介させて頂きました。こちらをご参照ください。

https://bungeikan.heimnohiroba.com/writers/azuma/compiegne-2/

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です