痕跡
こがれる こがれる巻き貝の眠り 自ら紡いだ石灰質の
螺旋のままに 身を沈めていく 底の尖った窪みの一点
まで しゅるしゅる回転する身体 轤に回る陶土のよう
に 脹らみ細まり やむことのない変幻
沈んで行く 埋まって行く つま先から 底の尖った窪
みのなかへと 吸い寄せられる 硬い滑らかな艶のある
殻の内側 虹の七色が潜在する壁に眠りが包まれるとこ
ろ 窪みが眠りを液体のように静かに湛えるところまで
巻き貝に 砂に 降り注ぐものがある 薄い光 夜明け
の? それとも沈む陽の一瞬の光? ほそい雨ならなお
いい 雨のなかを鋭い声を長くひいて 鳥が渡ることも
あるから 何の鳥だろう 意識がかすかに動いて耳を呼
ぶ
殻は緻密な刻み目や螺旋状の脹らみを持ち その石灰質
の白さが 降りそそぐものをわずかに弾く 殻と空気の
境目で 降りそそぐものと弾かれたものとが うっすら
と白い炎のように混じり合う 眠りながらわたしはそれ
を見ている まどろみからまどろみへ 眠りは殻に包ま
れたまま 最後の潮が退いた後も 洞窟の底に沈んでい
る
洞窟の壁に残っているのは 途方もない過去の 溶け合
わなかった時間 それらは層を成して折り重なり 互い
の境目を印している 真珠色を帯びたベージュに うっ
すらとピンクに わずかずつ色さえ変えて 溶け合わな
かった時間の痕跡が 乳白色の洞窟の壁に染め出され
波が残した跡のように 優しい模様に変わっている
溶け合う? 溶け合わない? 巻き貝の眠り 乾いてい
く砂 こまかく尖った岩の縁 それらはすべて洞窟の底
に閉じ込められている |
とても素敵な貝の歌ですね。萩原朔太郎の感覚的な詩とは異なって、知性が表わされていて程よく保たれている。でも、この詩には、実は感覚も主体なる私も含まれていて、これら知性と感覚と私とのバランスの中で詩の全体が構成されて展開している。ただ、各フレーズの内でこれらをどう配分していくのかは難しいことだとも思います。即ち、いっそのこと私を取り去った方が詩として客体化してより良くなるとも思われます。反対に、もう少し私を押し込んで、私のまどろみの感覚を押し出した方が良いのかもしれません。どちらが良いかは私には分かりませんが、巻貝と私の関係性を混濁させることの難しさがあると思います。いずれにせよ、貝が渦を巻いて、この宙のカイラルティを見せて、海の底のエロシチズムを暴き覗かせているのは、詩としてとても優れていると思いますね。朔太郎の「蝶を夢む」を思い出しました。大変失礼な記述を含まれているとは思いますがご容赦下さい。
歩く魚様
鋭い批評、ありがとうございます。感激しました。わたし、についてよく考えてみます。私の詩は難解と言われることが多いです。詩を書く人たちもしばしばそう言います。編集者は、さすがに違っていて、独自性を貫くべし、の意見ですが。「蝶を夢む」をきちんと読んでみます。歩く魚さんは、詩を書く方ですか。科学に強そうですね。なお「痕跡」はずいぶん昔の作品で、『流体』(思潮社 1997年)に入っています。今後もお読みいただければ幸いに存じます。お礼まで。(E.O)
返事が来るとは思ってもいませんでした。ありがとうございます。
当方はハイムに住む者で執筆者には知っている人も結構います。このハイムの広場のHPを見ることはなかったのですが、文芸欄ができたというので、どのくらいのレベルかと覗いてみたら、この詩が目に留まり、失礼ながらコメントしたという次第です。詩も小説も読みますしまた書きますが、投稿先はgoogle+からTwitterに変えています。
私が述べたいのは、詩を書く場合の主体の位置なのです。朔太郎の場合、背後に控えている。感覚的に私を直接的に書きながら、実は客観的主体とも言うべき観察者でもある主体だと思っています。蝶を見ている私を見ている私がいる。ところが、白石かずこの場合は主体そのものが前面に押し出されている。砂族における砂は白石かずこの内にあってもはや私と区別がつかない。といっても、この両者の詩の主体の差異はわずかなもので見分けがつかないかもしれません。でも明らかに違いはあると思っています。最果タヒが書いているぼくとかきみはおける主体は、半主体とも言うべき抽象化された主体なのです。もしや半ば主体が失われているかもしれません。
こうして詩を書く場合の主体たる私の位置取りを決めるのはとても重要なことです。決めるというより詩を書いた場合に表れてくる自己なのです。書いている対象とのこの自己との関係性、即ち対象と自己との混濁や孤立に隔絶や断絶の内に表れてくる自己、表現された自己が詩そのものと思っています。この主体の位置を詩の中で変えることは許されないのです。
遠慮なく言わせていただければ、「眠りながらわたしはそれを見ている」が唐突に表現されています。それまで、私らしきものが背後に居て書いていたものが、突如、私はまどろんでいると再定義している。詩の中のこの主体の位置の揺らぎはあっても良いのですが、あれ、今まで書いていた主体たる私はどこに行ったのだろうと疑問を持ちます。この詩の始まりから、主体はまどろみの中に居たのです。まどろみの感覚を書いていたはずなのです。それを説明文としてこの一文を書いてしまっているのが、この詩の唯一の欠点だと私は思っています。
長々書きましたがそれだけなのです。この主体たる私の位置を変えなければ、即ち、「意識がかすかに」はまだ良いにしても「眠りながらわたしはそれを見ている」との文章を削除すればとても素敵な詩になると思っているそれだけなのです。まことに失礼な批評を行いお許しください。