新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(上)

1980年代に仕事の関係でシンガポールに5年半ほど駐在しました。シンガポールは、今ではすっかり人気観光地になり、多くの日本人が連日訪れているようですが、当時はまだ知る人ぞ知る国で、駐在の話が決まった時に同僚の一人が、「シンガポールってマレーシアの一部だよね」と言ったものでした。

もう30年以上も前の話なので記憶も薄れかけていますし少しずつ思い出しながらの記述になりますが、体験したことを中心に書いていきたいと思います。最近の現地の様子と言えば、マリナ・ベイサンズのように様変わりの部分も多いことと思いますが、一昔前のシンガポールと理解してお読みいただければ幸いです。

また、そこはこんな風に変わったよとご存知の方は、コメントなりで是非お教えいただければありがたいです。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

(1)シンガポールの歴史

シンガポールはマレーシアの南に位置する島の都市国家で、気候は熱帯気候に属し、国内には多様な文化が存在しています。古く14世紀ころまではテマセックと呼ばれていたこの地は、やがてシンガプーラという呼称が定着していました。この名前にも諸説ありますが、サンスクリット語で「ライオンの街」を意味していると言われることから英語でライオンシティなどと呼ばれるようになりました。

シンガポールの歴史を語る上で欠かせないキーワードは、イギリスによる植民地支配、マレーシアなど近隣諸国との関係、多民族国家であること、初代首相リー・クアンユー、そして忘れてはならないのは日本軍がかつて占領していたという事実でしょう。

イギリスによる植民地支配

1819年人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たします。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取りつけました。この時、名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進め、1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなりました。

近代シンガポール建国の父と言われるスタンフォード・ラッフルズ卿の像は、現在ラッフルズ卿上陸地点とエンプレス・プレイスに2つあり、また、歴史ある優雅な外観とホスピタリティの高さで世界中の旅行客を魅了する高級ホテル、ラッフルズホテルにその名を残しています。

無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していきました。既に所持していた港町ペナンと、新たに獲得したマラッカとともに、シンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められました。

イギリスの植民地となったことで、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、そして中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割、また、ヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても大きな発展を遂げました。

この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国南部(主に福建省や広東省、潮州、海南島など)、南インド(主にタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来したことが、現在の多民族国家の起源となっています。

シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きました。20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなりました。

イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まりや弾圧を行いました。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、後に初代首相となるリー・クアンユーです。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布。1948年3月、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加しました。

シンガポールの歴史(下)に続く~

(西 敏)

 

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です