シンゴ旅日記ジャカルタ編(20) 日帰り旅行 その1 ボゴール植物園の巻
日帰り旅行 その1 ボゴール植物園の巻
インドネシアの草花が見たくなり、ある日曜日にボゴール植物園(クブン・ラヤ)に行きました。
しかし、そこは樹木が主体でしたので、期待したように沢山の草花を見ることができませんでした。
(ウィキペディアからの抜粋) ボゴール植物園はクブン・ラヤ(大植物園)といって、世界でも有数の大きな植物園です。植物園の面積は80ha以上あり、15,000種以上の植物を見ることができます。オランダの統治時代にボゴールはオランダ人居留地として発展しました。そして、ボコール植物園も元々は蘭印総督府の庭園だったのです。その後、一時的にジャワ島の支配が英国に移った1812-1816年に、ボロブドール遺跡を発見したり、巨大な花のラフレシアの発見で知られる英国人のラッフルズ(1781年~1826年、シンガポールの創設者)がボゴールに居住し、庭園も改造してイギリス風庭園としたのです。そして、英国の撤退後にオランダの所管に戻った1817年に正式に植物園として開園しました。この植物園はオランダの植民地経営がもたらしたアジアにおける輸出産品・育種研究の歴史的遺産の一つであり、タバコ、コーヒー、キャッサバ芋等の普及はボゴール植物園なくしては語れないとまで言われています。この他にも天然ゴムや茶,コーヒー,コショウ,サトウキビ,綿花,オイル・パームなどはこの植民地戦略に基づいて世界各地で栽培されるまでになったのです。日本の統治下では、植物園と標本館ともに、植物学者の中井猛之進が園長に就任し、日本軍隊からの大木の伐採要請を拒否して園を守ったとされています。 |
私と運転手さんは朝の7時にチカランを出発しました。
ボコールへの高速道路は混んでいなくて、9時前にボゴールの町に入りました。
歩道にはトレーニングウェアーを着た大勢の人たちが歩いていました。
運転手さんが休みの日はウォーキングが盛んであると説明してくれました。
朝食を食べて居たかったので運転手さんと植物園の近くのKFCに入って腹ごしらえをしました。
店内は多くの人たちで混雑していました。
インドネシアもファーストフードのお店が人々の生活に溶け込んできたのでしょうね。
その後植物園に行きました。入場料は一人16,000ルピア(約130円)でしたが、赤十字財団の寄付みたいなものを1,000ルピア(約80円)追加されました。
入場するとすぐに園内の案内板があり、それを見てどちらから回ろうかと運転手さんと相談しました。園内はあまりに広いでの一日では回り切れないだろうから、右回りに外側を歩いて行くことにしました。まず最初に歩いたところは道路の両脇がヤシの木ばかりのところでした。
そして歩けども歩けども大きな樹木ばかりでした。
私は歩きながら運転手さんに本で仕入れた植物のにわか知識を披露して行きました。
園内にはシードバンクの棟もありましたが、そこは閉まっていましたので、外側から窓を通して中を眺めると、いろいろな植物のタネが展示してありました。
また売店があり、お土産品として食虫植物のウツボカズラやハエトリクサも販売されていました。
私は運転手さんにこのように昆虫を食べる植物があるんだよと説明すると彼はびっくりし、ウツボカズラの中を覗いて虫がいるのを見てこれまた驚いた表情をしていました。
園内をどんどん歩いて行くと、高い木々ばかりに出合いました。
あるところでは太い、大きな木が二本並び、空に向かって高くそびえて立っていました。
私が商社の木材部時代にインドネシアから輸出したメランティ(フタバガキ科)の大木でした。
板根とは
樹木の地表近くからの側根の上部が平板状に著しく偏心肥大し樹木の支持や通気の働きをする根のこと。熱帯雨林の高木やマンぐろーず植物に多い |
園内を右回りにどんどん歩いて行くと守衛さんが立っている門がありました。
そこは大統領の住むボゴール宮殿でした。デヴィ夫人も住んだところなのでしょうね。
ボゴール宮殿の建物は、1834年のサラック山の大噴火の後に再建されたもので、歴代のオランダ総督とイギリス総督一人 (ラッフルズ) そして戦中のジャワ島司令官だった今村中将が住んだ歴史があるそうです。 |
初代園長ラインヴァルト(1773年~1854年)
ドイツ生れ、アムステルダムで植物、化学を学ぶ。 インドネシアがオランダの所管に戻った1817年にボゴールに着任。ジャワ人が家庭や医術で使用する植生の収集に乗り出した。農業と園芸におけるプロモーションを目的に、整備が進んだ。 在任中の1822年までに、約900種を47haの敷地に栽植・整備した。(ウィキペディアから抜粋) |
日曜日でしたので植物園のあちこちでは家族連れ、会社のグループ、友達同士たちがあちこちに座り、食事をしたり、中にはカラオケをしているグループもありました。
私たちは9時前に入園し三時間以上歩き通しでしたので、ちょっと疲れ、お腹も空いてきました。
私は運転手さんにまだお昼だし、もっとお花が多い公園が近くにないか調べてもらいました。
すると、スマホで調べていた運転手さんがありますと答えましたので、そこへ向かうことにしました。
Callicrpa Jopanica クマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木。湿り気の多いところを好む 6月ころに淡い紫色の花を咲かせるが晩秋まで残る美しい紫色の実の方が印象的である。花の名は源氏物語の紫式部に由来する。 |
KFCの駐車場まで戻り、そこから花の多い公園をめざしました。
途中でスンダ料理のお店で食事をとりました。
食後に高速で花の多い公園を目指して高速道路を走っていると、渋滞に出合いました。
車がちっとも進まないので、その花の多い公園には次の日曜日に出かけることにして、その日の旅行は切り上げてチカランに戻りました。
大航海時代とモルッカ諸島(香料諸島)
15世紀初めからポルトガル、スペインによる大航海時代が始まりました。
そしてそれにオランダや英国などが加わりました。
大航海時代が始まった理由はインドネシアのモルッカ諸島で獲れる香辛料(ナツメグ、クローブなど)を獲得することであったと言っても過言ではないと思います。
香辛料は当時の西洋諸国において高価な商品だったのです。
それまでの地中海経由、イスラム商人経由でなくヨーロッパ諸国がインドネシアを目指したのです。
日本に初めてキリスト教をもたらしたイエスズ会のザビエルもポルトガルの商人、軍隊など一緒にアジアに来ました。
ザビエルはモルッカ諸島にも布教に出かけ、そしてマレーシアのマラッカで日本人のヤジローに出会い、日本に興味を持ち来日したのです。
一方、スペインは西回りで香料を入手できると思い、南北アメリカ大陸に向かいました。
歴史って面白いですね。
丹羽慎吾