シンゴ旅日記 帰国者のボヤキ(その7)GOTO成田山の巻

ひょんなことから成田山新勝寺(以下成田山)の由来にはまってしまい、現地に行って調べてみたいことがありました。

それは寺紋です。お寺を記号で表すと法輪紋が描かれることがあります。お釈迦様が法の輪を転ずるがごとく仏教を広め人々を救済したことから仏教を法輪で表すのです。

また法輪はチャクラと言いヒンズー教のインドラ神の力を象徴する戦車の車 輪とする説や世界を照らす日輪とする説、古代インドで用いられた輪状の投擲武器・チャクラムとする説などもあります。

成田山の寺紋はかつて皇室と関係がある葉菊紋でしたが1869年(明治2年)の菊花紋章禁止令により皇室と関係のない寺院は菊の紋章の使用  が禁止されたのです。成田山もそれまでの葉菊を改めて葉牡丹に替わりました。ただし花は菊から牡丹に替わったのですが葉だけは菊のままです。

私が調べたかったのは成田山には菊花紋章禁止令以前に建立された建物や建造物があるのでそれらに菊の紋章が残っているのではないかということです。大本堂は昭和 43 年の建立ですから葉菊紋は残っていません。

そして他のお堂も大半は葉牡丹に替えられています。でもありました。一番よくわかるのは JR 成田駅から成田山に向かって参道を歩くと途中にある薬師堂です。現地にある説明文で納得がいきました。それには次のよう    に書いてありました。「ご本尊 薬師如来、 脇侍 日光菩薩 月光菩薩、 御祈願 健康長寿 病気平癒、 薬師堂は明暦元年(1655 年)に建立された旧本堂で徳川光圀公や初代市川團十郎が参詣した成田山現存最古の御堂です。

元禄14 年(1701 年)の本堂「現光明堂」再建の折、この御堂は新本堂の後方に移築され、約150 年にわたり伽藍の一部を担いました。安政 2 年(1855年)の本堂「現釈迦堂」建立を機に明暦の旧本堂を薬師堂と改称、この地に移 築し現在 に至ります。」

つまり成田山の本堂を初代から表すと現薬師堂⇒現光明堂⇒現釈迦堂⇒大本堂と替わって来ているのです。そして本堂が変わるたびに本尊も替わってしまうは面白いですよね。初代の本堂の薬師堂は薬師如来と日光菩薩、月光菩薩を、二代目の光明堂は大日如来、不動明王と愛染明王を本尊として縁結びにご利益を、三代目の釈迦堂は釈迦如来と普賢菩薩と文殊菩薩の釈迦三尊になっているのです。

大本堂の前でボランティアのガイドさんの説明によると釈迦堂はかつて現在の大本堂のところにあって昭和 43 年(1968 年)に大本堂が建立されたときにコロで今の場所まで運ばれたとのことです。そして彼はその移設の時の写真をお手持ちの資料の中から見せてくれました。

また成田山は古い建物を壊さないで残していくお寺なのですよと説明もありました。それで多くのお
堂が残っており、 お堂ごとに御朱印も絵馬もあります。成 田山には他にもなぜか聖徳太子堂、ガネーシャの聖天堂、弁財天などが祀られています。また建物としては総門、仁王門、三重塔、額堂、一切経堂、醫王院そして平和の大塔があるのです。最近の御堂の建設は大林組が一手に請け負っているようです。

なお境内を離れても成田山の参道には見どころが一杯あります。薬師堂の前に地元出身の女流俳人三橋鷹女(1899 年~1972 年)の像が建っていてその横の説明文にかいてあった一首に惹かれました。

「夏痩せて 嫌いなものは  嫌いなり」

わがままな女性だったようですね。またJR  成田駅前のカラクリ時計は各時ごとに時計台が上がると囃子や歌舞伎の獅子が現れます。獅子は牡丹の花の匂いに狂い踊るのですよね。

成田山の参道には名物の胡瓜の鉄砲漬け、おせんべい屋さん、鰻料理屋さん、お土産屋さんのほかに中華料理店、タイ料理店などいっぱいあります。大船駅、横浜駅、品川駅、東京駅などから成田エクスプレスで直通ですよ。

すでに成田山に行かれた方も多いと思いますが今度は成田山の由来を知ってさらに楽しくお詣りすることができること請け合いです。のーまくさんまんだーばーざらだん せんだーまーか ろしゃーだー。

丹羽慎吾

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