シンゴ旅日記ジャカルタ編(9) 散歩しながら考える(インドネシア語)の巻
散歩しながら考えるの巻 インドネシア語 (2017年4月記)
散歩していると道路脇の木陰にポツンと停車しているタクシーをよく見かけます。
そのタクシーのテッペンにある表示には「TAKSI」と書いてあります。
英語のTAXIがインドネシア語ではTAKSIとなるのです。
タクシーをインドネシアの隣国のマレーシアでは「TEKSI」と表示します。
そして、バスはインドネシア語がBus,マレー語ではBasです。警察はインドネシア語がPolisi、マレー語はPolisです。同じ英単語がこの二つの国の人たちにはそれぞれ違った音に聞こえるのでしょうね。インドネシア語とマレー語は兄弟言語と言われ、60-70%は同じ単語を使います。
違いがある身近な単語の例は次のとおりです。
インドネシア語 | マレー語 | ||
お店 | TOKO | KEDAI |
インドネシア語でKEDAIは飲み物を提供するお店です。 |
車 | MOBIL | KERETA | インドネシア語ではKERETAは電車、汽車です。 |
病院 | RUMAH SAKIT | HOSPITAL | 今度はマレー語が英語の外来語です。 |
ジャカルタ名物の交通渋滞をインドネシア語で「MACET(マチェット)」と言います。これがマレーシアでは通じないようです。マレーシアでは「TRAFIC JAM」と英語で言うとのことです。
多くの島からなるインドネシアは、ジャワ島が政治経済の中心で、総人口2億6千万人の60%以上が住んでいます。ジャワ島西部のジャカルタ、バンドンなどスンダ族の人々で日常会話はスンダ語で、ジャワ島中部、東部の人たちはジャワ語です。
しかし、現在の標準インドネシア語はスンダ語やジャワ語とは全く違い、マレー語に近い言葉なのです。なぜマレー語に近い言葉がインドネシアの標準語になったのでしょうか。
それは、標準インドネシア語がマラッカ海峡を挟んだスマトラ島の言葉を起源に持つからです。
なぜかと言うと、ジャカルタがインドネシアの中心地となったのは16世紀にオランダがインドネシアを植民地化し、ジャカルタに本拠地を置いてからで、それ以前はマラッカ海峡がインド洋から南シナ海に抜ける物産、文化の中心地だったのです。
マラッカと言えば15世紀のマラッカ王国(1402年~1511年)が思い起こされますが、それ以前にはマラッカ海峡をまたぐ王国がスマトラ島にあったのです。
それはシュリビジャヤ王国(6世紀初め~1414年)です。
そして、マラッカ王国はこのシュリビジャヤ王国が東ジャワのモジョハピド王国(1293年~1478年)の攻撃にあい、マレー半島に逃げ延びて建国した王国なのです。東方諸国記を著した16世紀のポルトガル人のトメ・ピレスは「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとしています。
マラッカ王国の前身であるシュリビジャヤ王国は仏教国で、ジャワ島にあった同じく仏教国のシャイレンドラ王国とも仲が良かったようです。
このシャイレンドラ王国は有名な仏教寺院であるボロブドゥールを建設しています。
そのボロブドゥール寺院の近くには、ヒンズー教を信奉したマタラム王国(古マタラム王国)がプランバナン寺院群を築造しています。
現在はイスラム教徒が国民の87%を占めるインドネシアですが、またイスラム教が興ったばかりの7-8世紀には仏教、ヒンズー教が盛んだったのですね。シュリビジャヤ王国の中心であったパレンバンには当時仏教大学のようなものがあり、唐の時代(618年~907年)の僧である義浄(635年~713年)が仏典を得るためにインド行ったときに立ち寄っています。
シュリビジャヤ王朝の系統を受け継ぐマラッカ王国は小国でしたので、中国の明(1368年~1644年)に朝貢を行い、永楽帝(1360年~1424年、在位1402年~1424年)からマラッカ国王に任じられました。
そして、永楽帝の命により鄭和(1371年~1434年)が指揮した船団は7度のインド、アラビア半島さらにアフリカまでの大航海をしていますが、その都度マラッカに寄港しています。なお、鄭和がイスラム教徒でした。マラッカ王国はその鄭和の来航を期に急成長するとともに、ヒンドゥー教のマジャパヒト王国に対抗して商業活動を抑え込みインド洋と南シナ海の中継貿易として繁栄したのです。
マラッカが交易の中心となるとアラビア語、ペルシャ語、タミル語、ジャワ語など交易の相手国で話されていた言葉が商業共通語であるマラッカ王国のマレー語に置き換わって行ったのです。
マラッカ王国は15世紀の半ばに中国との交易のバンランスをとるかのようにイスラム商船の来航を促すためにイスラム教を国教としました。
そして大航海時代が始まり、アジアへ進出してきたポルトガルによって1511年にマラッカは占領されました。しかし、王族は分家があったジョホールにジョホール王国を建設し、現在まで世襲のスルタンによって王位が継承されているのです。シュリビジャヤ王国から続くしたたかな王朝です。
その後、ポルトガルに代わり1641年にオランダ東インド会社がマラッカを占領しましたが、オランダの拠点はジャカルタでしたのでマラッカは地方港に過ぎなくなりました。
1824年の英蘭協約でスマトラ島の英領アチェ王国と交換にイギリスに譲渡されました。
英国はマラッカよりもシンガポールを発展させたためマラッカの港湾機能は衰退していったのです。
マレー語は当初は文字を持たない言語でした。
それで、マラッカ王国はイスラム教に改宗した時に、アラビア文字を取り入れました。
それがジャウィ文字です。インドのウルドゥー語のようなものでしょうか。
ジャウィ文字は現在でもブルネイやマレーシアの一部地域で使用されています。
その後、マレー半島がイギリスの植民地なった時にジャウィ文字はアルファベットに置き換えられました。
一方、インドネシアもジャウィ文字を使用していましたが、オランダの植民地となりオランダ語アルファベット文字が採用されていきました。
インドネシアではオランダの植民地下で独立の機運が高まると海峡マレー語をインドネシアの標準語とする運動が始まりました。
1928年の第二回インドネシア青年会議において次の青年の誓いとして決議されました。
「我々インドネシア青年男女は、インドネシアという一つの祖国をもつことを確認する。
我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族という一つの民族であることを確認する。
我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する。」
しかし、インドネシア語が正式な国語となるのには1945年8月17日の独立まで待たなければなりませんでした。
インドネシア語は母音が6つしかありませんし、中国語やタイ語のように四声、五声といった声調もありません。複数形は日本語の山々、人々、家々いと同じく単語を二回続けます。日本語はウラルアルタイ語系と言われますが、きっと単語として南方から入って来ているのではないでしょうか?
と、いうことは人々の交流もあったのです。そして、インドネシアの国章にヒンズー教のガルーダが描かれています。宗教の変遷をみても日本とインドネシアはよく似ていると思います。