詩集「流体」

荻 悦子
詩~「空・五月」

 空・五月   野鳥が ピシピシ 鳴きながら 空の端を綴じて行く 目の粗い布 漉されるというより 自ら迸り出る 果汁 朝の音 松の木の 新しい銀の花穂 幹から枝へ 絡みついた蔦にも 柔らかな若葉が重な […]

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荻 悦子
詩~「タスマニア」

 タスマニア   コーティングされた紙の表面が照り タ ス マ ニ ア 零 時 至急返事をお送り下さい しゅわっと浮いて吐き出 されながら 床に届く前に 不均衡に巻き上がる こち ら 何時であっても 自在では […]

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荻 悦子
詩~「砂の数行」

左の耳の下に左腕を敷いた姿勢で目覚める 玉砂利の岸 に打ち上げられている ひりひりする痛さ ここはあな たが書き始める言葉のありかだと感じる わたしはあな たのペンの先からにじむ黒い雫 紙に落ち たゆたい やがて揺れ動く […]

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荻 悦子
詩~「痕跡」

痕跡 こがれる こがれる巻き貝の眠り 自ら紡いだ石灰質の 螺旋のままに 身を沈めていく 底の尖った窪みの一点 まで しゅるしゅる回転する身体 轤に回る陶土のよう に 脹らみ細まり やむことのない変幻 沈んで行く 埋まって […]

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荻 悦子
詩~「蜂」

蜂   書物を広げ 語りかける老人の背後に 丘に向かう石段がある 不揃いな自然の石を集めて 傾斜はゆるい 青い花を咲かせた釣鐘草が 細長い茎を捩じるように揺れ 大きな蜂が二匹 波のように交互にやって来ると 淡い […]

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荻 悦子
詩~「星群」

星群   シンバル わわっと背を揺すられる その後ろで ヒューと 花火のように 高く昇っていく音 ペルセウス座流星群が見えるかもしれない 明かりは消してある ベランダの天井が仄白い そこに 柱の影が折れて二本 […]

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荻 悦子
詩~「薔薇の谷」

 薔薇の谷   ひそかに 父の椅子を外して 始まった秋 大きな実がはじけ 鳥が群がる あらゆる方角で 歓声ばかりが大きく 熟れすぎてか 熟れないままでか 実はみずから あらわに皮を剥ぐ どこから取りつくにして […]

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荻 悦子
詩~「残響」

残響 投げられた マンドリン 波うち際 胴の中を走る 微量の砂 波のざわめきを割って ゆれあがる残響 硬く厚く 明け方 壁の海図に 亀裂を走らせる いくつもの半島 横たわる湾 砂丘をなぞり 汀をなぞり 見知らない海鳥の影 […]

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荻 悦子
詩~「流体」

流体 なぜ馬なのか それも白い 疾走する肢体が 薄明のなか 青ざめて見える 濡れた砂に 私が残した旋律 わたしの歌はやがて乾き 砂はうねって丘をつくった だが やさしい稜線 などと なぜ感じるのか 大きく揺れあがる馬の背 […]

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荻 悦子
詩~「視線」

視線   雲の岸辺で 見開かれている目 その強い視線 白い鋭い光 ぐっとこちらを射ると 光は瞳の外に 花びらのように弾け散り 目の輪郭は見えなくなる 見えない 捉えられない 熱 こちらを射る一瞬 白く燃える光 […]

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荻 悦子
詩~蝶と日時計

蝶と日時計 文字や標が 刻まれて円状に並び 古い石盤は乾いている 正午前 中心部近くに 黒い蝶が遭難した 翅を広げ 翅をすり合わせ あざとく見える 黒い蝶 その影はたよりなく 震えてうすく 正午の標までは届かない 日差し […]

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荻 悦子
詩~光と球体

光と球体 ものの影を重ねて ゆがんだ球体 空洞が ぽってりと座っている 忘れられている もつれて躍る光は 球面に漉され 過去はひとつの和音にこごる ひとすじ溶け出した雫か 生まれ出た力は われ知らずあふれ 空洞のなかを駆 […]

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荻 悦子
詩~鳥

 鳥   鳥が 身体を垂直に 尾を下にしたまま 枝から落ちるように すとんと下がり そのままの姿勢で 元の位置へ昇ろうとする 胸の位置に 両足をたたみ 羽根は ほとんど広げず 身体を震わせ 三十センチほどの […]

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荻 悦子
詩~空と湾

空と湾   手すり 窓枠 壁 それらを逸れて 薄く 布切れのように落ちる影は 鳥のもの 岩陰では ウニが あと一晩の浅い息をつぐ 網袋に集められ 実験用です 触らないでください そう書かれた札をつけて 瑠璃色の […]

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荻 悦子
詩~空の球面

空の球面 氷河の底が 光を湛えているだろう 碧色に盛り上がり ねじ曲がる 怒りと呼ぶには 済みすぎた魂 氷河に続く氷の原は どこまでも平らに見え 人がたったひとり 橇を牽いて歩いて行く その人がこちらを向き 微笑んでいる […]

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荻 悦子
詩~冬の市

冬の市 脂肪が焦げる匂いがする 勢いづいた音が跳ね オーブンの熱い排気口から ごく細く青い煙が揺らぎ出る 家の鶏は卵を産むでしょう 肉は固いから 食べたりはしない そんなさもしいことはしない でも そうする所もあるでしょ […]

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荻 悦子
詩~渓谷

渓谷 行かないよ 四肢を拡げ 仰向いて 浮いている 膨らんだ 声と 声 冷ややかな真水 干乾しにされたのだった 身重のマムシは 隣人によって この時期 鉄錆色か黄土色の 柔らかい小石を探して 硬い石に 書いてごらん (の […]

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荻 悦子
詩~黄色の鯉

黄色の鯉 欲しかった 過去形にして 黄色の鯉が 二匹 三秒前から この瞬間へ カーブの軌跡 近づいて 反り返り この瞬間 はっきりする 欲しかった あれは どうして それは このようです 葉書を 一枚 ふわりと飛ばして […]

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荻 悦子
詩~祖父の庭・十二月

祖父の庭・十二月 納屋の 広い土間の隅 鳥の羽根が 紙の上にこんもりとある 触らないのよ 訝しげに言う母の声を遮って 一本だけ ね つやつやした羽根 赤茶色にさまざまな斑点があって 光の具合で色が変わる きれいな一本だけ […]

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荻 悦子
終わりの空~詩集「流体」より

終わりの空 丸い錫の写真立てに 入れておくのは 他人の冬 夢と呼ぶな 幻とも なつかしい なかった聖日 ここではない土地の 雪の降る祝日 椅子に上着を掛けたまま 人はわけもなく人を呼んで なごりの空を眺めに立った 裸木の […]

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